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契約

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自分のベッドに想い人がいるというのは、それだけでひどく蠱惑的に映るものだ。横になり、普段のやんちゃ……もとい、闊達さを隠し、眠そうに目を擦る姿などはまた格別。
 以前、自分のことを『誘惑の悪魔』と呼んだ人間がいたが、その名は彼にこそ相応しいのではなかろうか。
 とろんとした目で自分を見上げる少年を見つめて、メフィストはこの日、最高に上機嫌だった。

「雪男のやつ、最近出張多いよな」

 だがこの状況で他の男の名を出すのはいただけない。
 少年に気付かれぬよう、凍りついた笑みを一瞬で解凍すると、男は用意してあった答えを口にする。

「奥村先生は優秀ですからね。あちこちからお呼びがかかるのです」

「ふぅん。優秀、ね」

 どこか拗ねたように繰り返し、唇を尖らせる。実際の年齢よりずっと幼いその仕草に、男の表情がだらしなく崩れた。

「そんな顔していると、キスしちゃいますよー?」

「っ、バカ!」

 顔を赤く染めた少年が一瞬の間の後に枕を投げつける。それを宙で消し、少年の頭上に落して返すとメフィストはひっそりと笑った。

 嘘は言っていない。奥村雪男は確かに優秀だ。だが、彼を指名して依頼される仕事はまだそう多くない。
 彼の出張は、舞い込んでくる依頼を割り振る人物、つまりはメフィストの指先で決定している。

(公私混同はしていませんよ。奥村先生の手に余る仕事は回していませんし、ちゃんと休息日も用意してあります。授業が遅れないように配慮もしているのですから、ええ、公私混同などではありませんとも)

 たとえ、奥村雪男が出張の間は少年を自室に招くことができるとしても。他に支障がでないように配慮した部分があれば、それは公私混同などではないと言い切るのが、メフィストという男だ。



「そういえばメフィストってさ」

「はい?」

 もぞもぞと枕から顔を覗かせ、少年が口を開く。不自然に泳ぐ視線は落ち着きがなく、照れ隠しに話を変えようとしているのは明らかだ。
 彼の弟に関する内容から話題が変わるのは男にとっても都合がいい。メフィストもそれに乗って先を促し。


 次の瞬間、後悔した。


「メフィストって、あのメフィストなのか?」

 枕を頭の下に敷き直し、位置を確かめるように身動いだ少年が問いかける。その質問に息を吸い込み、男は意識的に普段通りの笑みをその顔に張り付けた。
 そして平然と、内心はおそるおそる問いかける。

「どのメフィストでしょうか」

―― 男には、知られたくない過去がある。 

「えーっと、なんだっけ。……『実録メフィスト本』?」

―― 少年にだけは、知られたくない過去がある。

「あっはっは、ストーカー記録みたいな本ですね」

―― そんな過去があること自体、知られてはならない過去がある。

「あれ?んーっと……?」

 眉を寄せる少年を見つめ、男はゆっくりと息を吐いた。知られたくない過去はあるものの、なぜこの少年がそんなことを言い出したのかも気になる。すでに何かを知った上での質問であれば誤りは正さねばならない。無論、事実を知ってしまったのであればそれを捻じ曲げる必要もあるだろう。

 男はこめかみに指を当てて考え込む仕草を見せ、ぽつりと呟く。

「ふむ……『実伝ヨーハン・ファウスト博士』でしょうか。通称『ファウスト本』と呼ばれている――」

「そうそれ!この前、雪男がすっげぇ真剣に読んでてさ、そんなにおもしろいならって俺も読んでみたんだけど、ちっとも意味わからなくて」

「ほう?」

(余計な事を。牽制のつもり、ですかね。奥村雪男くん?)

 メフィストの目が細められ、剣呑な光がその奥で瞬く。だが少年はそれに気付くことなく、おそらくは弟から聞かされたのであろうあらすじをまくしたてていく。
 そして突然黙りこむと、じっと男を見つめた。

「それで、私がそこに書かれている悪魔と同じだと思ったのですか?」

 視線を受けて問いかける。だが頷くと思った少年は小さく首を振った。上掛けを鼻まで引っ張り上げて顔を隠して言葉を続ける。

「違うと思った。でももし、魂と引き換えに人間の欲望を叶える悪魔がお前なら……」

 もごもごと、布に遮られた声は聞き取りにくい。男はベッドサイドまで歩み寄ると、そこに腰をおろした。上から少年の顔を見つめ、瞳を覗きこみ、そして問いかける。

「私なら?……もし私が、魂と引き換えにあなたの欲望を満たして差し上げると言ったなら……奥村燐君、あなたはどうしますか?契約しますか、それとも拒否しますか?」

 それはまさしく、悪魔の囁き。
 男は視線に力を入れ、少年の心の深いところへと問いかける。表層から内部、そして深層へ。そうやって欲望を引き出すのは契約を行う時の手順だ。メフィストの瞳に捕らわれた人間は皆、心の奥底にある自身の欲望を口にしてしまう。

 だが、少年は契約に足る「人間」ではない。案の定、男の視線は弾かれ、少年は眠そうに目を擦った。

「俺?……契約するよ」

 ふぁ、と欠伸をしながら、拍子抜けするほどあっさり少年が頷く。男はパチリと瞬いて首を傾げた。

「おや、そうなんですか……では、あなたの望みはなんですか?」

「ずっと……一緒にいたい……」

 瞳を閉じ、少年は男に背を向けるようにしてベッドに潜り込んでいく。男から少年の顔は見えなくなったが、少年からも男の顔は見えないだろう。
 それでいいと思いながら、男は自分の口元を押さえた。

「俺が生きてる間は、お前が俺の傍にいて……俺が死んだら、俺はメフィストのものだから……だから……ずっと……そばに……」

 瞳が閉じられ、かくりと頭が沈み込む。話す言葉は吐息に消え、やがてそれは規則正しい寝息へと変わっていく。



 少年が完全に眠りに落ちたのを見計らって、男は大きく息を吐き、そしてゆっくりと立ち上がった。

「本当に困った子ですね」

 少し癖のある髪を撫で、額に唇で触れる。ふにゃりと緩んだ顔を見つめて男は笑い、そしてその顔を歪めた。

 悪魔の契約は彼が思うほど優しくもなければ美しくもない。契約に捕らわれた魂は、主となった悪魔の災厄を代わって受ける依代だ。輪廻の輪に戻ることも許されず、その魂が擦り切れて消滅するまで、未来永劫に苦痛が続いていく。この子にそんなもの、与えたくなどないのに。
 それでも自身の周りに留めておけるのならば、彼が望むのであればと、醜い考えに囚われかけた自分が許せない。

「悪魔はね、人間に幸せな夢を見せることはできても、本当に幸せにすることはできないのですよ」

 ぽつりと呟き、男は跪いて少年の枕元に額を埋めた。
 この世界に神などいない。そんなことは誰よりもよく知っている。
 例えいたとしても、悪魔である自分が神に祈るなど三文喜劇にもなりはしない。

 それでも。
 彼の笑顔を守りたいと、彼を失わせないで欲しいと。
 何者かに祈らずにはいられなかった。


作品名:契約 作家名:ゆきな