Moonlight Sonata / サンプル
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あんまり美しいからそれが人形だと分かってはいたけれど、まるで生きているみたいだと思った。分かっていても、硝子に遮られ、瞑られた瞳がどんな色なのか知りたかった。
ふらふらと、ほとんど無意識に店内に足を向けていた。普段の自分なら人形屋に入ることなんてないだろう。だけどこの店だけは、いや、この人形にだけは惹き付けられた。店の中には瞳を閉じた美しい人形が何人も、いや、何体もそこにはいた。それなのに俺はあのショーウィンドウの人形から目が離せない。
今まで自分がいた通りのほうを向いて座る人形を横から眺める。触れるなんて出来ない。行儀よく眠ったように座る人形をただ見つめて、そう、瞬きもせずにも見つめていたはずなのに、不意にその瞼が揺れたから俺は小さく息を飲んだ。
人形が、動き出した。震える瞼がそろりと持ち上げられて開かれた瞳が硝子の向こうを見て小さく首をかしげた。それから俺を見る。
息をして空気を震わせてしまうのも惜しかった。このまま息が止まってしまうんじゃないかと思ってしまうほどに。
彼は俺を見て、ふわりと笑った。
真っ直ぐに此方を見据えた彼は怖いほど美しかった。優しい色の大きな瞳を開いた彼はとても、愛らしかった。
「う、そ…だろ…」
間違いなく人形だったはずなのに、今だって人形であるはずなのに、動いている。俺を見て笑っている。微笑むように閉じていた唇を開いて言葉を発した。
「お名前は?」
「し、翔…」
「翔ちゃんですか。かわいいお名前ですね。お名前だけじゃなく、もちろん翔ちゃん自身がとってもかわいいです」
人形が立ち上がる。全部の所作が穏やかで静かで、それなのに音楽が聞こえるように優雅だった。この世のものじゃないみたいなのに、まるで、まるで生きているみたいだった。
俺より少し低い身長で、爪先を伸ばし背伸びをするようにして、そのまま俺に抱きついてきた。
囁くように聞こえた声も夢みたいに優しかった。しょうちゃん、だぁいすき。
金色の髪からは、柔らかくて甘ったるい、蜂蜜みたいな香りがした。
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作品名:Moonlight Sonata / サンプル 作家名:東雲