耳に雨の降る
冷気を伴って雨が降る。
その日の雨はひどく冷たくて、傘を持つ雪男のコートの裾を濡らした。
「あーあ……憂鬱な天気だなぁ全く」
どんな天気でも、雪男は聖十字騎士団へ赴かねばならないことになっている。毎日の検診――『サタンの落胤としての兆候』が現れないかどうかを厳密に調べられるのだ。そして聖十字騎士団に行くとなればそれ相応の格好をしなければならない。薬品と銃火器と弾薬とでずっしりと重いコートを脱ぐと、部屋に向かう。
「兄さん、入るよ」
親しき仲にも、というわけでノックをして声をかけてみたが返事がない。ドアを開けて一歩踏み入ってみたが、そこにやはり人影はなかった。
「出かけたのかな」
なんとはなしに、そうではない、という予感があった。外が雨だからというだけでなく。
雪男はコートをハンガーにかけると、シャツの襟首を緩めながら踵を返した。
寮の中は広い。なにしろ自分と兄の二人しか使っている人間がいないのだから、余計に広く感じるというものだ。
その中でも使う場所は大体決まっている。
「兄さん?」
最初に向かったのは食堂だった。入口付近は無人だが、奥の厨房のほうで何かの気配がする。
この厨房の主であるところのウコバクかもしれないと思いながらも雪男はそちらへ向かった。
「――兄さん」
潜り戸を抜けて厨房へ足を踏み入れると、古びた毛布にくるまって厨房の床で眠る燐の姿があった。
意表を突かれた雪男は目を見張る。その視線の先で燐が頭を重そうに振った。
「雪男、か。おかえり」
「ただいま。どうしたの、こんな処で」
「俺の勝手だろ」
燐は寝起きの不機嫌さ丸出しで身を起こしながら頭を掻いた。小さい頃から変わらないその仕草に思わず笑みが零れる。
「あいつ……ウコバクは?」
「いない。どっか行った」
キッチンの主である悪魔――メフィストの使い魔の名を出しても、燐はあくまで素っ気ない。雪男から目線を外して外を見た。
「追い払ったのかい?」
「そんなとこ」
ざあざあと。
雨の降る音にかき消されそうな燐の呟きは、雪男の不安を煽った。
その横顔までもが、ふいに消え去りそうで。
雪男は己の見た幻影にかぶりを振る。
「兄さんはさ、キッチンが好きだよね」
「ま、唯一の取り柄だからな」
「それだけじゃなくてさ。修道院にいた頃からさ、何かあると、こうやってキッチンに来て、料理作ったり、ぼーっとしたりしてたよね」
「知ってたのか」
眠たげだった目を見開いて燐が振り向いたので、雪男は少しだけほっとする。
「気付いてたよ」
「あちゃー」
そしてまた物憂げに瞳を伏せる。
「今は……何に耽ってるの?」
「……別に」
燐は少しきまりが悪そうに目線をずらしたが、その先に回り込むようにして雪男は燐に向き合って腰を下ろした。古いキッチンの床は決して清潔とはいえないが、常に使う者がいるのでほこりやゴミの類などはたまっていない。
「雨だね」
「ああ」
「どうして、キッチンなんかで寝てるの?落ち着く?」
「……かもな」
燐は喋るのも億劫そうにまた横になって毛布にくるまった。
「風邪ひくよ」
「馬鹿は風邪ひかねーからいーんだよ」
「自分で言うかなぁ」
雪男が笑うと燐も少しだけ笑った。
そして独り言のように嘯く。
「――キッチンは、いつか誰かが来るって判ってるからかな。俺、バカやってた頃は一人で時間つぶしてばっかいたけど、キッチンが一番、何て言うか、ほっとできる。一人じゃないっていうか、さ。寮に入ってから、お前と一緒だったからあんま気付かなかったけど」
それは。
自分の存在が、少しは燐の慰みになっているというふうに驕ってもいいのだろうか。
「……残して行って悪かったよ」
「しかたねーだろ、検査なんだし」
「ごめんね」
「謝るなよ」
ふいに燐が身を起こすと、雪男の胸ぐらを掴んだ。一瞬不興を買ったのかと思ったが、燐は目を伏せたまま少し照れくさそうに頬を染めている。
「謝るぐらいなら、――しろよ」
燐が雪男の首に腕を廻してきたので、燐の腰に手を当てて抱きとめると、いつもより蠱惑的に赤く見える唇に口付け、僅かに離す。
「――いいの?」
「何度も言わせるな、バカ雪男」
唇が触れあう距離で確認すると、馬鹿扱いされた。
「馬鹿で悪かったね」
その減らず口にまたキスを落とす。
でも今日は馬鹿でもいい気がした。
ざあざあと振る雨の音に燐がかき消されてしまいそうな幻影はもう見えない。燐はここにいる。自分の腕の中に。
唇は離さないまま毛布を跨ぐようにして燐に覆い被さると、雪男は燐を支えていたほうと逆の手を燐のシャツの中に滑り込ませる。
「……ふ、っ……ん」
燐は少し身じろぎしたが、すぐに雪男の背に手を廻してきた。
何度も何度も唇を重ね、燐の素肌を掌で味わい、侵食する。
燐の思惑が全て理解できたわけじゃないけど。
こんな日があってもいい。雪男は目を閉じて、舌と手の動きはそのままに、少しだけ雨の音に耳を傾けた。
『どうせ耽るんならぼくに耽りなよ』
そう燐に言いたい気持ちを、ぐっと堪えたままで。
ざあざあと。
二人ともの耳に雨が降る――。
[終]