ふられたのは勘違い
怒鳴るようにしてバニーが言った。
時計の針は7と8の間の、丁度真ん中の所でピッタリと重なっており、
新米サラリーマンである彼が出来上がるには、まだ少々刻が浅い。
まして、彼は酒には滅法強かったし、それに今日は
彼の得意な赤ワインだ。酔っぱらっている訳がなかった。
このところ穏やかなシュテルンビルトにあやかって、ヒーロー達は各々の日常を謳歌していた。
復讐を終え、柔らかに笑うようになったバニーも、相棒である俺も、その中の一人である。
とは言え、元々ヒーローであることが日常のような生活を送っていた二人にとって、
サラリーマンの真似事は至極退屈だった。
だから仕事終わりに、バニーの家で酒をあおるのが定番化してしまったのも、或いは仕方がないことのように思う。
家族よりも近くにいる。無論、恋人なんかは存在すらしていない二人を
鳴らないコールが手伝って、たったの一週間の間に、彼について知ることは随分増えた。
彼が好きなカリフォルニア産の赤ワインの銘柄、グラスを上げ下げする独特の速度、
眼鏡を外す彼なりのタイミング、柔らかな髪を結い上げる時の伏し目がちな横顔。
隣で眠るバニーの規則正しい寝息。意外に長いまつげ。
いちいち腹が立つ程に美しく、一寸の狂いもない彼を、盗み見るのが好きだった。
「出会った時は嫌なやつだと思ってたけど、今となってはお前は一番の存在だよ」
顔を見るのは照れ臭くて、視線を窓の外に縫い付けたまま言ったのは、つい先刻の事。
この台詞が冒頭のシーンに繋がるだなんて、夢にだって思っていなかった。
彼に好かれている―。
そんな風に自惚れていた自分に絶望する。
否、あまつさへ嫌われているかも知れないと思わざるを得ない彼の一言が、矢のように飛んで、一直線に心臓を貫いた。
広い部屋に響く彼の怒鳴り声が、じわじわと広がって窓ガラスを揺らし、
キィ、と嫌な音を立てて共鳴していく其れに、笑われているのうな気さへして、かき消すようにグラスの紅を胃に流し込む。
「ごめんなさい、怒鳴ったりして」
心底申し訳なさそうに言うその言葉は、まるで女性からの告白を冷静に断る紳士のようだ。こんなときでも、彼はやっぱり一寸の狂いもない。
「だよなー、こんなオッサンに一番だー!なんて言われたって、気持ち悪いだけだよなー!
それにしたって怒鳴るほど嫌いだなんて、オッサン泣きそうよ?」
おどけた言葉で言うと、目頭を押さえる仕草をしてみせる。実際、心底泣きたい気持ちだった。
生活をともにする毎に、今の自分にとっての全てが彼のような気がして、
その気持ちが特別なものだと気づいても、愛の告白だなんて性に合わない。
だから、せめて笑い飛ばされる冗談のようなものでもいいから、
彼の事を大切に思う気持ちを、他ならぬ彼自身に伝えたかった。それだけだったのに。
「僕がいつ、あなたを嫌いだの気持ち悪いだの言ったんです?」
「だって、一番にはなりたくないってのは、そーゆー事だろうが」
「勘違いですね。まぁ、僕の言い方が良くありませんでした」
そこまで言うと、ひとつ大きなため息をついて、困ったような顔でこちらを見つめ、それから窓の外を走る車のテールランプに視線をうつした。
「あなたにとっての一番は、奥さんやお子さん、家族であるべきです。
僕は、家族を大切にしている貴方の事を好きになったんですよ?
僕は一番の存在でなくていい。ただ、少し特別な存在、その程度でいいんです」
言いながら笑う彼の、あまりに不器用な告白にこちらの方が赤面してしまいそうだ。
一番でなくていい、それはとても彼らしい理由だ。
「一番よりも、特別の方が上じゃねーのか?」
からかうように脇腹をつつくと、やめてくださいと言ってみをよじらせた。
一番でも特別でもなんでもいい。
ただ、彼が変わらず側にいてくれる未来を、願わずにはいられなかった。