愛を捨てて独り占め
「あ、園原さん」
それだけのことで額縁に罅が入る。
「すぐに戻るから教室で待ってて」
抱えられた大量の荷物にようやく気づき、頼まれたのかそれとも自らから言い出したのか、とにかくその少女を手伝っているのだと理解する。
「……手伝いましょうか?」
しかし既に入ってしまった皹から流れる声が額縁にべったりと口紅のような赤を塗りつける。
「大丈夫だよ」
咄嗟に皹を掌で押さえるも塞がらず、口唇のような皹からは斬れ、愛せと彼女を唆す言葉が漏れる。
「そう、ですか」
黙れと皹を押さえながら、短く返して彼女はその場を去った。
逃げるように教室へと戻り息吐くと、彼の隣にいた少女がどんな容姿だったのか全く思い出せないことに気づく。服装も髪型も髪の色もどんな顔だったかもどんな体型だったかも、何も覚えていない。
ただ少女がいたことは確かだ。
少女が、彼女ではない少女がいた。考えるだけで四肢の末端から冷えていく。有り得ないことではない筈だ、彼とはそういう関係ではないのだから彼が彼女以外を選んでも不思議ではない。けれど否定する。
――だって帝人君は……
――愛せもしないのに愛されて当然なんて傲慢だわ
振り返れば罅割れた額縁の中で見知ったような見覚えのないような少女が嗤っていた。
――愛せないなんて言わせないわよ斬られても他人を愛してる娘もいるし斬られても私に愛させなかった人もいて言いたくはないけれど私を捨てるって選択肢もあるのにそれをしないのは貴女の勝手だというのを忘れないでちょうだい
皹から赤を流しながら、少女の姿を模る罪歌は歌う。
――そんな貴女と帝人君は違うのよ誰かを愛せるしその誰かと恋をする権利もあるのそれを恋人でもない貴女に奪う権利はないわ
再び皹に手を押しつけるも流れる赤は止まらない。
――でも貴女には私がいるじゃない
赤が接する場所から彼女の手を染めていく。
――その誰かより先に私が愛してしまえば貴女が私を愛している限り帝人君は私達以外のものにならないわ
指の間から零れ手首を伝い、ボタリ、ボタリと床に赤い水溜を作りながら肘へと近づいてくる。
――ねえだから愛しましょう斬りましょう帝人君を
少し緩めた掌の隙から動脈を掻き切ったように鮮紅が噴き出した。
――私達のものに
その言葉を遮って皹を殴りつける。実際に殴った際とは異なり音もなく皹が広がるようなこともなかったが、流れ続けていた赤は怯んだのか一度その流れを止めた。
――黙りなさい
手に纏わりついていた赤は血が乾いて剥がれ落ちるように散る。
――今の言葉で決めました、帝人君だけは愛させません
額縁の中では少女が訝しげな表情をした。
――貴女と共有なんて嫌です
しかしそれも一瞬で、額縁からは再び赤が流れ始める。
――愛せもしない貴女が彼を独り占め出来るとは思えないのだけど
嗤う少女から拳を退き、罅割れた額縁と流れる赤ごと新しい額縁の中へ。
――愛だけが感情の全てだと思わないで下さい
額縁の外はいつも通りの教室で、近づいてくる足音を聞いてほう、と息を吐く。彼は真面目だから廊下を走りはしないけれど、それでも急いで戻ってきてくれるだろう。一緒に帰る、まずはそれが最優先事項だ。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「いいえ、そんなに待ってませんから」
柔らかく笑う彼に決意を秘めて笑い返す。
何者にも邪魔はさせない、何者にも奪わせない、他人は元より宿主にすら。
格子つきの額縁の中では見知った見覚えのない顔の少女が何かを言っている気がしたが、全ては額縁の向こうのことだ。