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リップクリーム

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「わ、海堂、お前唇切れてるじゃないか」
後輩の分厚い唇に、真っ赤な縦線が一筋走っている。
海堂は下唇に親指を押し当てて、そこに薄く付いた血液を確認すると
「……痛ェと思った」と少しだけ眉間に皺を寄せて一言、ぼそりと呟いた。
「大丈夫か。今は乾燥するからなァ……」
「平気ッス。こんなん、舐めときゃ治りますよ……」
「いや、駄目だ海堂。そんな事をしたら余計に乾燥してまた切れてしまう確立86%だぞ」
「……じゃあどうすればいいんスか」
こいつはテニスや日常の雑事を問わず、困った時はすぐにその目付きの悪い三白眼で俺をじっと見上げて助けを求める。
初めはその眼に気圧されたものの、今はもう慣れたもので。
俺に全幅の信頼を置いてくれるこの後輩がただ可愛らしい。
父性のようなものなのだろうか。大石程ではないが、生来頼られるのは嫌じゃない。
「リップクリーム、買ったことないのか?まあ今ある俺ので良ければ貸すけど」
「男がそんな女々しいモン使えねぇス」
「女々しいてお前ね……痛いんだろ。
ほら、こんなメンソレータムのとかなら別に普通だし、最近は男用のリップクリームも出てるんだから。
何も俺は女子が持つような苺の匂いのするのを使えって言ってるんじゃ無いんだ。ほら、これ使え」
「……スンマセン」
半ば押しつけるようにリップクリームを渡すと海堂は最初こそ渋ったものの、
「”俺が”見てて痛いんだ」と言うと割とすんなり受け取ってくれた。
繰り出し式のリップを大ざっぱに塗っている姿を横目で見ながら、あ、これ間接キスだなんて思うが、黙っておく。
潔癖の気がある海堂だ。乾先輩キモいっすよー!なんて笑って流せる桃城なんかと違って、
こいつにこういう冗談は通じない。
まあわざわざ気付かせて嫌悪感を持たせる必要も無いという事だ。
「ありがとうございました」
「はい、どういたしまして」


―――


「さっきの、間接キス……でしたよね」
途切れた会話の間に唐突に言い出したのは、先程俺のリップクリームを使ったことについて。
途中何か思い悩んだ様な表情をしていたのはこれの事か。
改めて思うと、あれは少し強引だったのかもしれない。
パワハラ?とまではいかないと信じたいが。なんにせよ悪いことをしてしまった、と心の中で反省する。
「あ、あぁ、そうだね。ごめんな、海堂はそういうのやっぱり駄目か」
「ンな訳!!……ないっス」
「ん?そうなのか」
寒さのせいか、海堂の顔が赤い。
そこまで強く否定しなくても、とは思うが。まあ好意的に受け取っておく。
優しい子だなあと思って、頭を撫でようとそのバンダナに手を伸ばすが、突然振り向かれて上げかけた手が行き場を失う。
「……乾先輩は、嫌じゃなかったんスか」
「俺?俺は……」
ふむ、と考える。まさか俺が聞かれるとは。
半端な位置にある手を顎に添えて、先程の状況を思い返す。
嫌じゃあないから貸したんだけどな。可愛い後輩の為だし、そもそも俺はそういうの気にしない性質だ。女子相手じゃああるまいし。
「嫌ではないよ、うん……海堂だからね」
「!!」


軽く付け加えた一言がどれだけの重みを持って海堂に届いたのか。
翌日の放課後海堂に告白を受ける瞬間まで、俺は全く知る由も無かった。
作品名:リップクリーム 作家名:桐風千代子