風の夜
高い所に立つのが、好きだった。
ひゅると流れる上空の風は、地上にいるときよりもその威力が強い。
遮るもののない空では、風はより自由に気のむくままに吹き渡るのだ。
大鐘を釣る石造りの構えは、夜風に冷えてひやりと冷たい。
片手を付いたそこから伝わる硬い感触が心地よい。
はたはたと流れるクーフィーヤが耳元で音を立てている。
雲のない夜だ。
新月に近い細い月は、それでも天高くに誇らしげに昇って輝いている。
鋭いその切っ先を見ていると、遠い昔を思い出すことがある。
シンドリアでの日々は毎日が慌ただしく、あまりにも多くのことが起こりすぎて、人ひとりの人生からすれば大したこともないはずの長さのその時間が、とてもとても遠い昔のように感じさせるのだ。
あの頃から、高い所に立つのが好きだった。
いや、好きだとか嫌いだとかいった感覚ではなかったかもしれない。
物事に好悪を感じるようには、幼い自分はできていなかった。
自分を構成するものは、ただ、与えられる命令と無感動な日々。
黙々と命じられるままに命を奪い、血に塗れる手を拭い、また奪う。
死にゆく絶叫さえ、耳には届いてもジャーファルの何をも動かさなかった。
そう、だから、きっと好きだったのとは違う。
けれど、よく高い所に登っては、真っ暗な空を眺めた。
闇に埋もれる地平線、空に溶け合う水平線をぼんやりと眺めた。
彼方から渡る風は、とてもとても強くて、水平に、時に下から吹き上げるように通り過ぎていく。
遠く離れていけるような気がした。
例えば、人の喧騒だとか。
無遠慮に投げかけられる蔑みだとか。
血の臭いだとか。
高く高く吹き荒れる風は、すべてを浚えていくような気がした。
冬の夜には、痛いほどに頬を嬲る風は、全部を刺し貫いて流していってしまうような気がした。
ただ無為に命の略奪を繰り返すだけの体を、もしも奪うものがあるのだとしたら、こんな風だけなのだろうと思った。
死ぬときは、風に射殺されるのだと思っていた。
「お前、すぐ高い所登りたがるなあ」
一体どうして嗅ぎつけたものか、呆れたようにシンドバッドが腰に手を当てて立っていた。
もちろん、彼が近づいている気配には気付いていた。
他人の動向に敏感なのは、幼いころから鋭敏に刷り込まれた生き残る術。
ただでさえ鋭い感覚が、シンドバッドを相手にすると殊更に強くなる。
彼の匂い、気配、声でなくとも彼の立てる衣擦れの音すら拾って反応するのだから、この体は。
「おお、いい景色だな」
ジャーファルの手に重なる位置に手をついて、背後から被さるようにシンドバッドが立つ。
はためいたクーフィーヤがシンドバッドの体に受け止められて動きを止めた。
「こんな時間にこんな所で何をなさっているんです」
「それを先客のお前が言うか」
「立場が違うでしょう」
「お前も十分にシンドリアの重要人物だが」
「唯一無二の国王陛下には比べるべくもありません」
「お前も、俺にとっては唯一だ」
こんなことを何のてらいもなく言ってのけるのだから、世の中の女性が皆簡単に落ちる訳だ。
言えば即座に返る滑らかな言葉が、まったくもってシンドバッドらしくて振り返らないまま小さく笑った。
震えた肩で笑いを感じ取ったのだろう、そっと肩を抱かれる。
跳ね除けられないだろうという確信をもってそうするとき、シンドバッドの手は優しいけれど強引だ。
とん、と背中が引き寄せられる。
逞しい胸に体を預ける形になって、ジャーファルは小さく息を吐いた。
じわりと伝わる体温があまりに温かくて、長時間風に晒していた体が随分冷えていたことを知る。
「ジャーファル」
声が降りてきて、耳に触れた。
風が髪を飛ばしたせいで、普段は隠れている耳朶が顕わになっている。
唇で柔らかく食まれて、身動ぎすると肩を掴む手が、首を伝って胸元に回った。
「冷たいな」
俺はもうちょっとぽかぽかしたのが好みなんだが、お前一体どれだけこんなところにいたんだ。
耳の中を丹念に舐め回しながらの言葉に、じわりと熱が生まれる。
石造りの大鐘を覆う構えの上で重ねられていた手が、指の間に指をねじ込んで掴まれた。
ゆっくりと、ゆっくりと、胸の上を撫でる手。
全てが捉えられて絡み取られて、頬が紅潮するのが分かる。
触れられた部分から熱が生まれて、そのまま溶かされてしまうのではないかと錯覚する。
錯覚、ではなくて、本当に溶けてしまえたらいいのに。
小さく呟くと、聞き咎めたシンドバッドが耳元から顔を離した。
くるりと体を反転させられて、両の頬を大きな手のひらに包まれる。
「お前に溶けられては困るな」
こんなに熱を生んでジャーファルを溶かそうとしているくせに、一層蕩けさせるような瞳が覗き込む。
「俺をおいて、一人で溶けられては困る」
「………ひとり、では?」
「二人なら、そうだな、」
溶けても構わないぞ、と言葉を同時に口づけを落とされる。
いとも簡単に侵入を果たした熱い舌先が、歯列を潜り抜けてジャーファルのそれに絡んだ。
ふ、と息が抜ける。
抜けた吐息さえ絡め取られてしまう。
堪らず目を閉じて、大きな体の胸元にしがみ付いた。
湿った音が、夜風に攫われる。
熱い。
熱くて。
本当に溶けてしまいそうだ。
死ぬときは、風に射殺されるのだと思っていた。
けれど、今は、もしも死ぬならこの唯一無二王の腕の中で。
心も体もすべて、ジャーファルの全部を絡め取られたまま、
2012.1.7