口唇
随行はミュラー主席上級大将とビッテンフェルト上級大将の各艦隊。そして、軍務省側近からは臨時調査局長ファビア・ゲオルク・ワイツェッカー少佐を除いた、官房長官アントン・フェルナー准将、直属の軍官僚ヘルマン・デートリッヒ・グスマン少将、軍務尚書付主席秘書官グレゴール・シュルツ中佐。そして、結成されて間もない軍務尚書護衛隊隊長フェルナンド・フォン・ヴェストファル中佐が、それぞれの分野で脇を固めている。
現在のオーベルシュタインの役職は、新領土<ノイエラント>治安回復に関する”皇帝の全権代理”であるが、軍務尚書の任を解かれたわけではない。
今は亡き、新領土<ノイエラント>総督であったロイエンタール元帥の権限は、臣下として比類なきものであった。
オーベルシュタインは新領土<ノイエラント>総督でもその代理でもないが、実質的な職責は、混迷の状態にある今、過日のロイエンタールに勝るとも劣らないといえよう。
そして元より、首都星にいてもなお、激務の軍務尚書職である。
本来ならばフェルナー准将かグスマン少将を軍務省に残し、軍務尚書代理とはいわずとも、省の要とすべきだったかもしれない。しかし、新領土<ノイエラント>に山積している問題を鑑みればそれどころではなく。ワイツェッカー少佐を中心とした”あくまで表向きは”直属ではないが優秀な部下たち――軍務省以外の省庁内にも存在している――の能力を十二分に発揮して貰う他なかった。
「煙草・・・吸いてえ」
TV電話<ヴィジフォン>、超高速通信<FTL>、極秘情報コンピュータ、数える単位が一山、二山の書類等々と終りなき格闘を続けていたシュルツ少佐は、それでもどうにか時間を搾り出すようにして作り、軍務尚書とその側近のためにコーヒーを淹れる。これはオーベルシュタインらが求めたのではなく、シュルツの息抜きのひとつでもあり、彼らの健康にそれとなく気を配るというシュルツ独自の任務のためでもあった。
新首都より発して約六日目。臨時の官房長官執務室となっている船室に、砂糖をスプーン半分、ミルクは無しのコーヒーを運んできたシュルツの耳へ最初に飛び込んできたのは、人間離れした速度で案件をこなす姿からは想像もつかないほど、気の抜けた声だった。
「・・・フェルナー准将」
「シュルツ、煙草~」
「あ、ありません。准将ご自身がお持ちにならなかったのでしょう?」
「なあ、一本だけ・・・」
「・・・ありませんてば。
と、とにかく、コーヒーでもお飲みになって―――」
「いつもの両切りじゃなくていい。フィルタ付きの軽いのでも・・・あー、葉巻でも、マリファナでもいいから・・・」
「いい加減にして下さいっ」
ロイエンタール元帥亡き今、帝国軍内では最も整った顔立ちとされる相貌をやや歪ませ、それでもシュルツは静かに、執務の邪魔にならない位置へと実質主義の形をしたコーヒーカップを置く。
この時代の煙草は有害性が殆どない。依存性も然りである。
よって、煙草を止めることも然して難しくなく、禁煙用の擬似煙草やニコチン薬品などは既に存在しない。
大体にして、喫煙が奇行とされるほど喫煙者はごく稀だ。空気清浄に気を配らねばならない宇宙船を使用する職業――軍もこれに含まれる――では尚のことである。
しかし、「周囲がどうであろうと、俺には関係ないね」とばかりに、世にも稀な喫煙職業軍人、加えてヘビースモーカーなのが、アントン・フェルナーという男なのだ。
余談だが、オーベルシュタインも煙草を吸う。但し、彼はまさに嗜む程度であり、煙草自体も香りを楽しむハーブ煙草が殆どだ。
フェルナーは決して煙草中毒者ではない。
任務に関係して、二・三年の間全く吸わなかったこともあるくらいだ。勿論、その間に不自由は感じていない。だからこそ、今回の新領土<ノイエラント>行きに際しても、その荷物の中にはライターはありこそすれ、煙草は一本も入れていなかったのである。
―――なお、フェルナー曰く。ライターは煙草に火をつけるだけのものではない。
「口寂しいのであれば、キャンディーは如何ですか?」
万年筆でも咥えていろ。ここにいない鳶色の瞳の女性士官ならばそう一蹴しただろうが、シュルツは如何なる状況でもやはり気遣いの人である。
「俺は口唇愛者じゃねぇぞ。・・・ん。お前の淹れてくれるコーヒーを飲み続けてたら、さすがの俺でも柄にもなく舌が肥えそうだ。あ。誤字発見。あとでヴィテルスバッハにスクワット一〇〇回決定」
煙草を異常なほど欲しがるのは、彼の心理下で過剰のストレスを感じている表れではないか。シュルツは最初そんなことを考えていたが、それは打ち消しても良さそうだ。取り敢えず、この新領土<ノイエラント>平定軍の中では恐らくフェルナーが一番、精神的な余裕がある。
この男の精神状態を心配するぐらいなら、小型艇<シャトル>を使って砂色の髪の主席上級大将のところへコーヒーを届けた方がより建設的だろう。シュルツの友人でもある彼は、上官と同僚の間に挟まれて神経を疲弊していくに違いない。
「そうそう。閣下のところへ行く用事があったら、この光ディスク渡してくれ。
あと、新領土<ノイエラント>到着までに小型戦闘艇<ワルキューレ>へ久しぶりに乗りたいんだが、閣下を丸め込まなきゃいけないから、援護射撃よろしく」
「絶対嫌です」
そのくらいなら、リラクゼーション室にある植物の葉を刻んで手製の煙草を作ったほうがましだ、と。シュルツにしては過激なことを思わずにはいられなかった。
「口の栓がない准将のお相手は大変ではありませんか」
超高速通信<FTL>の向こう側で微笑む女性士官は、鳶色の瞳に一割の労わりと九割の確信を浮かべている。
彼女が送ってくれた最新情報を超小型記憶媒体へと受信しながら、シュルツは何故フェルナーが頻繁に咥え煙草をしているのか。身に染みて分かったような気がした。