夏の夜の夢 A
呆れるほどにゆっくりと上方の風に吹かれて、その様子はまるで沈みかける空に似た青から赤へのなだらかな変化の帯。
あれは何の花だっただろう。
あまり花に詳しいわけではなかったが、それでもあんな特徴的な花ならば覚えていても良さそうなもの。
見上げるばかりの空は遠く高く、輝くばかりの青が宝玉のよう。
光は泡のような雲に拡散し、ついぞ見たことのない様な風合いをもたらしている。
空の高いところを鳥が群れをなして横切る。あんまり遠いので彼らの姿はただ影となり、さえずる声は聞こえない。
けれど代わりに、目を閉じれば風の音が聞こえる。
――夢かうつつか。うつつか夢か。
○
。
゜
.
「夢を見た」 と彼は言った。
すると、それを聞いたもうひとりの男が面白そうに首を傾げる。
「――へえ。そいつぁ…どんなだ?」
「知りたいか」
日も高く上がっているというのにだらしなく床に身を横たえた男は、自分に用があるらしい若者に背を向けたまま、ちらりとも振り返りもしない。
一応、言葉ははっきりしているが、どことなく茫洋とした声音は本当に起きているのかどうかかなり怪しい。
背を向けたままの男に、しかし彼は気にする風でもなく、そりゃあな、とかるく頷いた。
対照的にこちらは、目に映るすべてが愉快でたまらないのだというような快さと、自信に裏打ちされるつよい光を両目にたたえた、なんとも威風堂々とした姿の若者だ。
生乾きの杯に視線を落として、彼は口元をかすかに笑み歪める。
「少しは。お前でも夢を見るんだなあと思ってな」
「これはこれは…兄上におかれては異なことを仰る…」
独特の焦らすような間を置いて、彼はようやく背中越しに顔を上げる。
ぼんやりとうすく開かれた目は酒が入って気だるげではあったが、そこに浮かぶのはまぎれもなくからかいの色。
「俺だとて、夢くらい見るさ」
「はいはい、そうだろうともよ」
しろがねの髪をした男がちいさく鼻先で笑った。
「兄上は考えたことがあるか?」
「なにを」
「……今、この時こそが夢ではないか、――と」
「ははっ。なんだよそりゃ」
「…夢とうつつの境目は曖昧だ。どこかで界が交じり合っていても気づかぬほどに」
「いや、そんなことはないだろ。寝ぼけてるだけなんじゃないのかそれ」
「さてな。しかし、兄上とて夢の最中に…今こそがうつつだと、そう思うことはあるだろう?」
「まあさすがに、ない、とは言い切れねえなそれは」
「――それほどに、夢とうつつはたしかな形の定まりがない。言い換えれば、変わり映えがしない…というべきか」
「饒舌だな」
「寝惚けているのさ」
面倒見良く相手の寝乱れた髪を手櫛で整えてやりながら、彼はあっさり笑って頷いた。厭味もなく軽く笑っていなせる程度にはそれなりに付き合いが長いのだろう。 「知盛。――もう目は覚めてんだろ。身支度を整えたほうがいいぜ? あいつが待ちくたびれて怒り出す前にさ」
「……姫君がお怒りになる、か」
くくっ、と喉を震わせてしろがねの髪をした男が静かに笑う。
「…もう、手遅れだろう?」
意味ありげに目を細める男に促されるように若者が背後を振り返ると、柱の裏から酒の臭いに眉をひそめた少女が顔を出すところだった。
○
。
゜
.
現のはざまにあるあぶくのような夢。
夢に現に、夢に現と、それらはくりかえし訪れる。
目を閉じて見るものが夢。――その名は虚構。
目を開いて見るものが現。――この名は現実。
しかし目を開いていればそれだけで現とは言えぬのがややこしい。
目を開きながらに夢を見るものもいるだろう。
目を閉じながらに現を見るものもいるだろう。
夢に現を見ることもあるのだろう。
夢を現に、現を夢に。
いまのこのときを、現と判じることが出来たとて、それが正しいといったい誰が知るというのだろう。