子守唄
春風に揺れる草原の中、大きな木の下で休息をとっていた時のことだった。
最近道連れになったマスルールという少年は、ファナリスというとても体力に恵まれた種族で、小さな体には見合わぬだけの力をもっていた。
しかし、年齢にすればまだまだ幼すぎるマスルールは、慣れない旅にそれなりに疲れがたまっていたらしい。
休息をとっているうちに、うつうつと船をこぎ出した。
「少し眠る?」
聞けば小さくこくりと頷きが返ってきて、そのままぱたりと寝入ってしまったのだ。
触れると熱いのではないかと思わせるほどの色彩の髪は、しかし以外に柔らかく、撫でる指にさらりと流れた。
表情の動きが少ないの赤い髪の少年は、表情の変化に乏しい。
しかし、最近になってやっと、動かない表情の中にも僅かな変化があることが分かってきた。
例えば、シンドバッドの背中を憧れの色を乗せて見ていたり。
例えば、森の中で動物と戯れている時は、嬉しそうに目を細めていたり。
こうやって、ジャーファルの膝に頭を預けて安心した寝顔を見せていたり。
これでも意外に喜怒哀楽があるのだな、と、感想を口にしたら、出会ったばかりの頃のお前に比べたら随分分かりやすいよと返された。
「……そうですね」
共に過ごすようになって久しい。
ごく短い時間しか過ごしていない人生ではあるが、そのうちの半分近くをこのひとと共に生きてきた。
真っ暗だった先の見えない人生に、ひと筋、かけがえのない光を与えてくれたひと。
自分は笑わなかった。
泣かなかった。
憤らなかった。
何かを悔やむことも、なかった。
それは違うのだと優しく教えてくれたひと。
何かを感じる心は、このひとにもらったのだ。
小さく微笑むと、頭をくしゃりと撫でられた。
「マスルールは?」
そのまま覗き込んできたシンドバッドが尋ねて、ああ、と笑った。
「よく寝てるな」
ジャーファルの膝の上ですうすうと寝息を立てる少年は、警戒心の欠片もないようだ。
初めこそシンドバッドにしか懐いてくれなかったが、一度信用してしまえばすべてをさらけ出してしまえる素直な性根らしい。
目に見えるような愛想こそないが、それでも、何かを訴えたいときにくいと裾を掴んでくる仕種だとか、何かを尋ねるとジャーファルを見上げてこくりと頷く様子だとかを見ていれば、十分に信用を得ていることがわかる。
信頼は、単純に嬉しかった。
「お前の傍が、随分気にいったみたいだな」
「そうですね、」
それは、単純に嬉しいのだ。
乗せられたままだった手が、もう一度頭を掻き回した。
ぐしゃぐしゃと髪が絡んで、思わず首を竦めて目を閉じた。
「俺に懐いてくれたばっかりの頃もお前も、こんなだったんだぞ?」
左隣にしゃがみ込んだシンドバッドが、今度はマスルールの頭に手を伸ばしながら言った。
赤い髪を、くしゃりと撫でる。
優しい手つき、自分が触れられたわけでもないのに、その昔の頃が脳裏に浮かぶ。
眠りに落ちる前の、いつまでもいつまでも撫でつづけられる温かい大きな手のひらの感触も。
時には膝の上だったり、草むらに並んで寝転んでいたり、寝台の上で抱きしめられていたり。
船の上にいるときには、ハンモックに揺られていたこともあったのだったか。
なんにしろ、温かい記憶しかない。
「そうですね、眠る時は、いつもあなたの傍でした」
慣れない温もりと陽だまりに戸惑う自分を包み込んで、それ以上の温もりでもって接してきたシンドバッド。
彼の傍にいるときは、それまで研ぎ澄まされてきた感覚のすべてを放り投げて眠ることができた。
自分にとってのシンドバッドほどにはなれずとも、マスルールにとって、自分が安心して寝顔を預けられるほどには安心の対象であることが嬉しかった。
ジャーファルもまた、マスルールの髪に手を伸ばす。
かつてシンドバッドがしてくれたように、温もりを分け与えられればいいと思った。
シンドバッドがマスルールを撫でる手を止めた。
ジャーファルのそれとぶつかる。
自分のよりもひと回り大きな手のひらに、そっと甲を包まれる。
「いい顔、するようになったなあ」
感慨深げな金の瞳に覗きこまれた。
傾けられた笑顔が、これ以上ないほどに優しく微笑んでいる。
保護者然とした物言いは、彼にだけその権利がある。
汚くて汚れた、およそ子どもらしさなど持ち得なかった自分を、愛され方を知らない自分を、年下の少年に向けてこんな顔をさせるまでにしたのはシンドバッドなのだ。
ただ、微笑んで返した。
言葉では、感謝は表しきれない。
ジャーファルが笑うのを何より喜ぶ彼には、こうするのが一番いい。
マスルールを撫でるのとは反対の手が、後ろからジャーファルの肩を引き寄せた。
「お前も、寝てもいいんだぞ?」
昔みたいに俺がついていてやるから。
引き寄せられるままに、逞しい腕に頭を預ける。
「子守唄、歌ってやろうか」
昔みたいに寝かしつけてやる。
その言葉には笑ってしまった。
今だから言いますけど、と前置きをして。
「シンは、歌、上手くないです」
「…………そうか?」
「多分、一般的な基準に照らして、間違いなく」
「……地味に傷つくな」
その割にはお前、俺の歌でよく眠ってたけどなあ、空を見上げた視線には、昔の回想の中の自分がいるのだろうか。
その姿はきっと、安心しきってすべてを預けて、穏やかな寝息で。
確かによく眠っていたのだろう。
でも、それは子守唄の効果ではない。
シンドバッドの、温もりゆえ、だ。
「……でも、歌ってください」
「いいのか?」
かえって眠れなくなるかもしれないぞ、若干恐る恐るといった風情のシンドバッドにおかしくなる。
普段は呆れるほど自信に満ちているくせに、こんな些細なところで怯みを見せるのだから。
「あなたの声なら、いいんです」
そう、シンドバッドの声ならば。
シンドバッドのものならば、それはすべてジャーファルを安らがせることができる。
そうして紡がれる若干外れた音程に、ジャーファルは目を閉じる。
上半身を預けたところから伝わる温もりを感じながら。
2012.1.9