閉ざされた世界で
「う、ん――」
「雪男?」
声の主は自分ではない。燐は同じベッドで寝ている雪男の肩に手をかける。素肌の感触は、寝る前に性行為に及んだ時の雪男の手の感触が嫌でも思い出されて一瞬ひるむが、返ってきたのは寝言だった。
「――違うんだ、神父(とう)さん――」
「……!雪男、おい!!」
深刻な夢を見ているというのは雪男の体中が脂汗でじっとりと濡れているのでわかった。夜明け前、一番暗い闇の中で燐は雪男を揺さぶる。
「ん……兄さん?」
「起きたか」
燐はほっと息を吐く。雪男はのろのろと体を起こした。
「……まだ夜明け前だね。僕、何か言ってた?」
「いや…?」
燐は言葉を濁す。断片的に聞こえた言葉だけで、だいたいどんな夢を見ていたのかは想像がつく。
雪男は眼鏡をかけながらクス、と笑った。
「また裸で寝ちゃったね。後始末するから、シーツだけ交換させて。兄さんは寝てていいから」
「わかった」
頬にキスしてきた雪男に全てを任せて、燐は布団に潜る。
寝直す、なんてできないことはわかっている。
そしてそれはきっと、雪男も知っているはずだった。
ゲヘナゲートを閉じてから――
二人の力を封印しなければいけない、という決定を新生グリゴリは下した。
二人の力をかけあわせて発生した強大な力を、人類にとっての驚異とみなしたのだ。
シュラは憤り、アーサー・オーギュスト・エンジェルはグリゴリに意見した。勝呂や志摩や子猫丸も拳を握りしめ、しえみは出雲にすがりついて泣いていた。
どうしてこうなってしまったのかと悩む間もなく隔離されそうになった二人は、その足で追っ手を振りきり、正十字学園町を後にした。
こうして、二人の逃避行は始まったのだった。
二人は北へ向かった。
燐はなんとか取り返した降魔剣だけを持ってきた。雪男は祓魔師(エクソシスト)のコートと最低限の銃火器で追っ手を撃退したあと、コートを脱いだ。だがまだ捨ててはいない。少ない荷物の中に大切にしまってある。
なぜ捨てないのかと聞きたい気もしたが、一方で仕方ないとも燐は思っていた。
雪男にしてみれば、生まれたときから悪魔が見えるのはごく当然のことで。それを祓うのもまた当たり前のことであり、その当たり前はすべて燐のためだった。それら全てを捨てるということは、己の人生を否定する、ひいては燐の存在をも否定することになる。
捨ててしまいたい。けれど捨てたら今の自分をも見失う。
これが、逃げる、ということの本質だ。全てを精算することができる時があるとすれば、それは問題と正面から立ち向かい解決させた時だけなのだ。
全てを引きずったまま、二人は逃げる。
あてもなく。未来もなく。
十五でしかない二人が逃げるのは思った以上に大変なことだった。
逃げる道すがら雪男は真っ先に金を用意した。まだ追っ手は金融機関にまで及んでおらず、その逃走資金は、雪男が今までエクソシストとして活動してきた都度に振り込まれていた報酬だった。
できればそのまま自給自足の出来る南の島にでもいけたらよかったのかもしれないが、パスポートもなければ裏の世界に通じている訳でもない二人は、ただ追われるままに逃げ――今は雪に閉ざされた小さな山小屋にいる。
寒さに耐えかねて布団で丸まると、暖炉に火を入れて戻ってきた雪男が脇に座る。
「兄さん、猫みたい。そうだ、落ち着いたら猫でも飼おうか」
「当ててみようか。黒い猫だろ?」
「そうそう、足先が白くてさ」
二人が思い浮かべたのは一匹の悪魔。しっぽの二本生えた、二人のかつての同居人。
「……元気かな、クロ」
「どうだろうね……」
当初こそ燐にしかなつかなかったクロだが、最近では悪魔狩りの時に人を運ぶ仕事の手伝いなどもしていたから、勝呂やしえみ達がかばってくれているのではないか、というのは楽観的すぎるだろうか。
「連れてきたかったな」
「戻る?」
二人が今いる極寒の大地から、あの雑多で懐かしい町へと。
「馬鹿言うなよ」
燐は後始末を終えて服を着ようとした雪男の首根っこを捕まえて羽交い締めにする。
「兄さん?」
「しようぜ」
「……」
雪男は一瞬逡巡したようだったが、燐の背中に手を回し、燐を抱きとめた。
「まだ寒いから、きちんと布団に入って」
「雪男こそ」
雪男が燐に口づける。触れるだけのキスはどこか切なく、燐はぽつりと本音を口にした。
「俺は、お前さえいてくれればいいんだから――」
燐に最後に残されたたった一つ。
雪男は儚く笑った。
――そして。
「お前が聖騎士(パラディン)になって、悪魔の血を集めて」
「それでも足りなくて兄さんの血とかけあわせて、ゲヘナゲートが開いて」
「なんだかんだで、閉じたんだけど、今度は追われて、逃げて……おわり、だよね」
「だったな」
んー、と二人で同じ布団の中で腕組みして考える。
双子のテレパシーなど信じたこともなかった燐だった――もしそんなものがあれば雪男に悪魔が見えることもエクソシストであることもとっくに知っていたはずだ――が、今日ばかりはこの不可思議な現象につけるいい名前が見あたらない。
「ゆうべ兄さんが僕の布団に入ってきたからかな」
そして目が覚めて、二人不思議な夢のことを話してみたら、同じ夢を見ていたことを知った。
「だって寒かったんだもんよ」
「わかってるよ。にしても、ところどころリアルだよね」
「それとさ……」
燐が言いにくそうに目を逸らす。
「あのさ、俺たち……」
「……うん、なんていうかこう、恋人同士しかしないこと、してたね」
燐が雪男を見ると雪男も気まずそうに眼鏡を外した。
「嫌、だった……よな?」
「ぼっ、僕はそうでもなかったけど!」
はじかれたように声を張り上げた雪男と目が合うと、顔を染めて俯いてしまった。
「俺も……そうでもなかった、かな」
思い出すだけで体に蘇る生々しい雪男の感触。今も触れあっているだけで、体が熱くなってくるのがわかる。けれど不思議なことに、”あり”か”なし”かと問われると”あり”というのが燐の中での結論だった。
「……その、試してみる?」
「へ?」
「いやっ、ううん、なんでもない!ごめん忘れて!」
「忘れられるかー!」
雪男の胸ぐらを掴んで、真っ赤になった雪男と目があったのが恥ずかしくてすぐに放す。
「いいけど」
「えっ」
「その……試してみても……お前が嫌じゃなかったら、だけど」
「僕はぜんぜん嫌だなんてこと――!」
「――ぷっ」
会話がループし始めたことに気づいて燐が吹き出すと、二人で笑いあう。
「後悔しない?兄さん」
「しない。だって」
”俺は、お前さえいてくれればそれでいいんだから――”
あの言葉は、あの想いは間違いなく、自分自身の願いに違いなかったのだから。
あの切なく儚い夢の中で自分は。
間違いなく、幸せだったから。
雪男の腕が燐を抱く。
その腕は、夢の中のそれよりも確かなもののように思えた。
[終]