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The best thing

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「キスして、クロード」
「イエス、」
嗚呼あああなたは何も言わずにただくちづけて下さればいいのに。
しかし答えが生まれて彼の言葉は主人の命令となってしまった。少年が慌てて唇を塞いだのも虚しく世界は急速に色を失って、触れるだけでやさしく通りすぎるはずだった接吻は冷たく味気ない義務に成り下がってしまった。欲していたなにかのあからさまな代替品に、しかしもはや拒めなくなった少年はせめて熱を求めようと唇を開く。すぐに長い舌が歯列の裏側をなぞりはじめ、いったい条件反射に囚われたのはどちらだろうかと彼は考えるでもなく疑問を浮かべた。
(そこになにもないことなんて分かってたくせに)
精製が足りない阿片をそのまま血管に注がれたような滾りは身体が離された瞬間に鎮まったものの、アロイスの膚下を這う神経はまださもしい敏感さを十二分に残していたーーつまり、毎日毎時毎分毎秒起こりるありふれた偽りにくら少年の心臓はきりりと音をたてて絞られた。
いつもと同じ夜に、いつもと違うものが欲しかった。そのために悪魔への供物として投げ込んだ小石が又もや虚無の中に失せただけだ。悪魔が感情を求めるのは、自ら身につけるためではない。
すぐ目の前にある執事の白皙の貌、レンズの向こうの今は金色に見える瞳からはなにも読み取れない。つまりは命令を待つだけの鏡に結ばれた像から視線を逸らす。自分がものほしそうな顔をしていることがいまさらのように思い出されたから。矜恃ではなく、本心を探らせるために隠そうとして。
クロードはーー彼の執事はしばし沈黙していた。アロイスを探ったかどうかはわからない。けれど蝋燭立てがナイトテーブルに降ろされる音を聞いたとき、アロイスは息を整えなければならなかった。それでも執事がベッド脇に腰掛けると呼吸が止まった。再び唇が近づいた。送り込まれた空気は湿っていた。不思議なことに、悪魔にはきちんと体温があった。アロイスはクロードしか知らなかったから、この熱すらひとの前に立ち現れるためのカモフラージュかもしれないとも思っていた。
けれどやがて離れてしまうとき、熱はなにも残しはしない。アロイスの言葉がクロードの前ではほとんどすべての場合において底の見えない井戸の中に落ちてしまうように、いくら熱を与えられても少年が満ち足りることはない。
言うまでもなく不自然な結果に、だからアロイスはまた戸惑いはじめる。喉がからからに乾き、何かを言わなければと義務感に駆られ、欲しがっているわけでもないものを求めそうになってしまう。
「クロード」
「ここに」
「クロードは、」
止められた言葉の続きを待つ沈黙に耐えられなくなるのはいつだってアロイスだ。
「……なんでもない。おやすみクロード」
「おやすみなさいませ、旦那様」
最後にもう一度アロイスの心が跳ね上がる。持ち主の握りこぶしと同じ大きさをしているという心臓、小さな心臓を隠し、守るようにクロードの出て行くほうに背中を向け、身体を丸める。蝋燭立てが取り上げられ、扉の軋む音が部屋にアロイスを残す。
本当は、こんな心臓なんて捧げてしまってもいいとアロイスは思っている。それだけが目の前の悪魔の虚無を一瞬でも完全に満たせる手段だと信じている。少年が執事に与えられる一番の贈り物だと願っている。魂の在り家である血肉そのものを貪るなど優雅とは程遠い行為だといつかクロードは言ったが、もしも指輪の石と同じ紅い液体に彩られた口許を一瞬でも見られるのならアロイスはかまわなかった。命令してもいいと思った。
その瞬間が訪れるまで、俺がお前の欲するところで在り続けられればいいのだけれど。
作品名:The best thing 作家名:しもてぃ