バブルアワー
たくさんの書類に埋もれて、気をつけなければ見落としてしまうような位置に、さりげなく置いてある。
右上がりのあせったような字。かろうじて読み取れる程度のその文字はもうインクがかすれてきてしまっている。
数ヶ月前、小柄な錬金術師が残していったものだった。
珍しい資料の閲覧許可を求めて訪れた執務室。ようやく許可が下りたことを告げたとたん、勇んで出て行こうとするのをひきとめて、東部にいる間の滞在先をたずねたときのもの。
今にも飛び出していきそうな勢いを消しきれなくて、渡されたメモの上に無造作に走り書かれた筆跡。
――あーもう、急いでるってのに!
――そう言うな。今度の滞在はいつまで?
――さあ、この資料の中身次第かな。
書き終えると、ひょい、と気軽に机の上に投げやって、
それじゃ! と一声放って彼の弟と一緒に駆け出て行った。
ひとつのことに意識が向くと凄い勢いでそちらにのめりこんでしまう。
気になってたまらないと体全体で訴えていて、その姿がすこし、ほほえましくも思えたものだった。
ロイは手袋をはずした指でメモをとりあげる。
万が一にも燃やしたりしないように。
秋の気配を漂わせる街の中を歩く。
傍らには弟がいて、金属の鎧の足音ががしゃん、がしゃんと響いている。
路上に吹く風はもう冷たく、羽織ったコートの襟を軽く合わせて、微かに白くなった息を吐き出す。
「あ」
ふと弟があげた声が、心なし弾んでいるのに気づいて振り返る。
「風船か」
「うん。なにかお祝いでもあったのかな」
兄弟の視線の先で、白塗りの道化師がおどけた様子で子どもたちに風船を配っている。
キャンディのようなかわいらしい色合いがふわふわと薄曇の空に浮かぶのを、金色の目が映し出す。
――鋼の?
不意に脳髄の奥から降ってきた声は、一瞬だけ耳元に落ちてすぐに消えた。
――風船が欲しいのか?
欲しかったら取ってこようかと、からかいを含んだ声で、そのくせ酷く優しい声音で、黒髪の錬金術師が言ったのだ。
あのときはまだ夏になる前で、陽射しがひどく眩しかった。
――莫迦か、あんた。あんなもんいるわけねぇだろ。
子ども扱いに怒って顔を背けた自分に、そうかい? と、呟いた男の、微笑とともに伏せられた眼の角度。
エドワードは上空へ眼を向ける。甘い色合いの風船が星のように浮かんでいる。
泡のようにあの音が弾ける。誰もきづかないくらいひそやかに、けれど取り返しのつかない速度で。
「大佐?」
いぶかしげな気配を含んだしずかな声が間近で聞こえて、ロイは目をあげた。
副官たる女性士官が、分厚いファイルを腕に抱えた姿勢でこちらをうかがっている。
「中尉」
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
曖昧に首を振って、ロイは視線を机の上に落とす。
「少し、休憩なさいますか? コーヒーでもお淹れします」
「ああ、頼む」
ちいさな足音をたてて、中尉の細い後姿が執務室を出て行く。
秋の陽射しを濾過した窓が、金色のひかりを室内に投げかけている。
ロイは机に肘を置き、指を組んで目を閉じた。
小さなメモがかしゃりと手の中で崩れる。
「はいどうぞ、こちらの方にも」
白塗りの道化師が、手袋をした手で風船をさしだしてくる。
掌の中に押し込まれた細い糸。
思わず受け取ってしまって、唖然とする。
こんなのを受け取る齢じゃないと突っ返そうにも、道化師はもう別の、ちょうど傍らにいた少女につぎの風船を手渡していて、タイミングを逃してしまった。
「いいじゃない、もらっておけば」
隣に立ったアルフォンスが笑って言う。
「ったってなあ……」
呟きつつ、エドワードは手の中のたよりない様子でふわふわ揺れる赤い風船を見上げてみる。
風船は頭よりも幾らか高い位置にあって、眩しさに少し目を細める自分を見下ろしている。あのとき、年上の錬金術師がそうしてきたような、あの高さで。
否が応もなく、さからいようもなく。
けれどそれは秘め事だから、気がついても口に出してはいけない。
「コーヒーをお持ちしました。残りの書類はこれでぜんぶですので……大佐?」
「ああ、なんでもないよ中尉。ありがとう」
「兄さん、どうしたの? まぶしかった?」
「……、なんでもねぇよ。行こう、アル、今日の宿を探さないとな」
気づいてしまったらもうおしまい。
その音は心臓の奥で砕ける。嘘のように、からだじゅうに響く。
気づいてしまったら、もうおしまい。