清らかな毒
煙草を吸うと必ず頭痛を起こすぼくを、彼は『特異体質』だと言って笑った。ぼくはヴォーカリストなのだから煙草が喉に良くないことくらい理解していたし、痛みが脈打つくらいの頭痛が起こることはある意味ちょうど良かったのかもしれないが、それでもぼくは大して好きでもない煙草を咥え続けていた。
父も母も兄さえも、ぼくの家族は全員喫煙という行為を嫌っていた。兄に至っては煙草を憎んでさえいるような雰囲気を醸していた。そういった家庭で生きてきたぼくが喫煙者となるなどいったい誰が想像できただろうか。
「おまえ、どうして煙草なんか吸うんだよ?」
痛みにうめきながら頭痛薬を探すぼくを見て、彼は呆れがちに口を開いた。そんな声が夜毎甦る。
今夜も頭の痛みに睡眠を中断され、枕元においたミネラルウォーターで頭痛薬を飲み込みながら彼の言葉を思い出していた。薬が効いていくのを待つ間、目を瞑ってずっと彼を思い出していた。
彼と──眉月大庵と初めて逢ったのはぼくがアメリカから帰国したばかりの時で、大庵はまだ高校生だった。けれど彼はその時からもう煙草を咥えていて、ぼくはその姿にカルチャーショックを受けた。アメリカでは未成年者の飲酒喫煙に関して厳しかったが、日本ではそうでもないのか、と彼に溢すと、大庵はにやりと目を細めながら「日本には守られない法律もあるんだ」と言った。
大庵の煙草はとても独特な香りだった。パッケージも自動販売機に並んだ安っぽいような柄とは違った。普通の高校生が吸うのは分不相応かもしれなかったが、何故か大庵にはそれが似合った。アメリカにいたころは近くで煙草など吸われたものならすぐに怒鳴り散らしていたが、大庵のかさついた唇が煙草を咥え煙を吐き出す仕草についうっとりと見惚れてしまっていた。いつからかぼくの髪や服にはその匂いが染み付きだし、そしてぼく自らがその煙草を咥えるようになるまでにそう時間はかからなかった。
枕に頭を埋めながら、鼓動と同じペースで痛みを刻む頭を怨めしく思った。鎮痛剤は効くまでが遅いくせに、効いたあとには吐き気が残る。ここ最近は毎朝その吐き気の所為で液体状のゼリーしか食べていない。しかし煙草を止めようとは思わなかった。
「…………、」
溜め息をつく。つきんと頭が痛んだ。
早く薬が効くように願いながら目を閉じていた。この痛みは眠りに逃げることすら許さない。ただぽっかりと口を開ける暗闇を見つめながら、少しずつ落ち着いていきそうな気分になった。
しかし、唐突に鳴り響いた携帯の電子音の所為で、ぼくはまた目をあけることとなる。手探りでベッドサイドの電話を取り、ディスプレイを確認せずに通話ボタンを押した。痛みがぶり返したような気がした。
「………誰、」
『なに不機嫌な声してんだよ。また頭痛起こしてんのか?』
「大庵? ……今頭痛いんだ、あとにしてくれないか」
『馬鹿だな、お前。何でそんな目にあってんのに煙草続けんだ? ヤニ中ってわけじゃねえだろう』
「うるさいな。ぼくの勝手だろ」
電話の向こうで大庵のくつくつと笑う声がした。誰の所為だ、と言いかけて口を噤む。ぼくが喫煙を始めた理由を知る人間はいない。大庵にさえ話していないのだ。
煙草を吸うたびにぼくに纏いつく匂いが大庵のそれと変わらなく、その匂いが知らず知らずのうちにぼくを安心させていたことに気付いたのは、戯れに大庵のシガレットケースから一本頂戴して吸ってみた時だった。あれほどまでに嫌悪していた煙草を吸うという行為に踏み切ったのはある意味で果敢な行為だったかもしれない。けれど煙草を咥えて火をつけたのは好奇心以外の何ものでもなかった。
煙草はやっぱり不味かった。
しかし、大庵と同じ匂いが自分に染み付く、という事実に、何とも言いがたい(ある種甘美的な)高揚を覚えたのだ。それからぼくは煙草を吸い始めた。頭痛を伴う弊害すらも受け止めることができた。
だけどそんなことを大庵に言えるかどうかというと──もちろん答えは否である。
『煙草吸ってる俺がいうのも何だけどよ、止められるうちに止めといたほうがいいぜ』
「禁煙失敗しまくってるお前に言われたくないよ」
『は、確かに』
電話の向こうの大庵はどこか機嫌がよさそうだった。酒でも飲んでいるのか、それとも何かいい事があったのだろうか。だけど大庵の機嫌がいい理由は大抵ぼくを苛立たせる。いい女がいるんだ、とか、いい女と寝たんだ、とか。この歳の男の話題としてはあまりに当たり前かもしれないが、大庵のそういった話題を聞くと何故か苛立って仕方がなかった。以前大庵から香った女物の香水を思い出す。甘ったるくて、気持ちの悪くなりそうな、ヴァニラの香り。大庵から匂うのはあんな安っぽい香水なんかじゃなくて、あの独特の、まるで彼のために作られたと言えそうな煙草の匂いでなくてはいけない。
電話機を握り締めながら枕に顔を埋める。彼は一度もここで寝たことなんてないというのに、白い枕カバーからはあの匂いがした。
作品名:清らかな毒 作家名:ラボ@ゆっくりのんびり