わが傾国
ただしそれも林冲が居ない宴席に限る。林冲の前で女の話は禁物だ。死んだ妻を思い続ける姿は確かに美談ではあるのだが、笑い話の最中にしみったれた暗い目で亡き奥方の美しさを語りだされても正直困る。
今日は運良く林冲が居ない。鯉の膾に中って寝込んでいた。
猥談まで行けば半分がつぶれ、おれも中座をすることが多い。宴もたけなわが過ぎてしまったら品の良い軍師はさっさと席を立ち、曰く「おんなよりもよほど明媚で妖艶な」梁山の景色を肴に柴進あたりと下手な詩を吟じ合っている。
鉄叫子が折りよく混じると中々に面白いため、澱んだ目の下卑た宴を後にしてそっちへ混じることに決めていた。
今日はまだそれほど宴が進まず、堅物の軍師もまだ第三席にてにこにこ笑う。心なし機嫌が良い。
話の中心が、今日に限っていつもの頭領どもの武勇伝披露とは違うのである。理想の女の話だ。
「おれは白ェのがいいな、衿から見える首っ玉が、こうすらりと白くって」
色の黒い阮小五が両腕を絡めて憧れるように空を見た。
「おい、そりゃあ皮肉のつもりかい」
兄の阮小二は弟の頭を小突く。小二の妻は小作りな美人だが漁師の妻だけあって日に焼けている。
「色が白ェのだったら横に居るぞーお」
浪裏白跳の張順がふざけて品を作る。むくれた小五を女嫌いの鉄牛が遮った。
「おれは女はいらねえ、男の中のほんとうの漢に女なんざ不要だ!傾城が言い寄って来たって撥ね退けてやらあ!」
「心配せずとも、お前みたいな乱暴者に言いよる女は居らんよ」
宋江が哂った。
「私は見目云々より心根の優しいのがいいですな、老父を敬ってくれるような」
「さすが賢弟」
「副頭領の忠孝の心には呉用、いつも頭の下がる思いです」
実際深く頭を垂れて見せた軍師を意地悪く掴んだのはその宋江。
「そう言う軍師はどんな女人を好まれるのかな?」
「は」
「はっは、こりゃあいい!」
「先生、馬鹿なおれらに教えてくれよぅ!」
まさか己に話を振られるとは思ってもみなかったのだろう。頓狂に眉を潜める呉用に堅苦しい言葉で宴席を盛り下げた罪とばかり、野次が集中する。
「いや、これは…」
「おやおや逃げるな、軍師殿、なんとしても聞かせて貰わねば」
援け舟を出そうかとも考えたが、中々に面白いので焚き付けた。おれが言ってしまえば逆らう事も出来なくてこと色事に関しては初心な軍師はゆっくりと髭を抓んだ。
「そうですな、呉越の西施か唐の楊貴妃か、やんわりした柳腰がよろしいですね、花も綻び鳥も囀る格別の美女」
「へえ?」
平凡な答えに誰もが唖然とする。
「てっきり貞女の名が出ると思ったがなあ、これは意外」
「軍師殿は面食いかあ」
「孔明先生の妻は不美人と決まっているがなあ」
高尚に見えた軍師の思わぬ下卑た答えに誰もがにたにたと顔を見合わせる。
微笑んだ軍師はきっぱりと言いきった。
「家廟は絶え、敬うべき両親もこの世にはない。不貞を行おうにも山寨には気骨のしゃんとした豪傑しか居らぬから、不貞の働きようもない。それに兄弟達が見張っていてくださる。少々素行が悪かろうが美人のほうが都合が良いでしょう?」
つまらない返答だった。
頭領達に絶対の信頼を置いている姿勢を見せることは出来たし、ちらりと見せた俗っぽさは堅苦しい文人と距離を置く者に親しみを抱かせるにも最適だったろう。
軍師としては充分な答えだったが、それでも落胆を禁じえぬおのれが滑稽だった。
李逵のように、女などいらぬと撥ね付けるのを底では期待していた。
普段の堅物から充分に許される姿であるし、赤面してひゃあひゃあと囃されるのを見たい気もあった。
そこで、兄弟が居るから女なぞはいらぬのだと縮こまれば更に良い。
からかいの声を抑え、手を差し伸べてやったのに。
宴席を抜けて蓮の花などを毟っていると、件の呉用がやってきた。酒精に頬をほの赤く染めて、とぼとぼとおぼつかぬ足でこちらへ向かう。
「ご機嫌斜めですか」
「まあな」
酔っているのに嘘のように冷たい指先が握った拳を開き、つぶれた蓮の花弁を惜しむ。
「ああかわいそうな、実が取れるのに」
「どうでもええわ。・・・相当酔っとるな、兄弟」
うす赤の花弁を一枚一枚慈しむ指は気付けばおれの手にやんわりと重ねられている。
近い顔を見つめると髭さえなければ女のような優男。この横に西施が、楊貴妃が並べばよく似合うだろうか。
「要らぬ事を考えている顔・・・」
「何も考えちゃおらん」
膨れた頬を指が撫ぜる。
「絶世の美女なんてものは、手に入るものではありませんよ。手に入らないからこそ価値だ。すべての珠には瑣末でも瑕がある。瑕があるからこそいとおしい。皆安心するでしょう、軍師は面食いだから、おれの女は大丈夫だ、とね」
「だが、現われたらどうする」
上機嫌の呉用は無精髭に絡まってゆるゆるとあちらこちらへくちづけはじめた。
その頃になれば憤りも収まって、唇の前に来た腕を軽く噛んでやるぐらいの稚気は戻ってきている。
「妬いていらっしゃる?」
「そう向けたのは貴様だろう」
体を返して悪さのできぬよう肩を抱いた。
「美しいか、美しくないか、決めるのは主観。伝説の西施も王昭君も私にとっては瑕ものだ。『あなたでない』という瑕が、ほらひとつ」
絡まった体は、あなた、あなたと繰りかえす。
「そんなのにそぐう者は居らんのじゃないか?」
「・・・だから、あなたでまにあわせているのです」
口を吸えば酒の甘い香りがする。指先からは蓮の香り。滔々と繋がるこころよい声音。
「わるい奴だ。妬かせて、おれを試したな?」
「さあ、どうだか」
風光明媚の景色と火照る顔を過ぎる擽ったい風とを共に、この美酒を愉しむとするか。
「計算高いきまぐれは、まるで傾国だな」
酔いのなかで高い笑い声が、一筋漏れた。