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十六夜の散歩道

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その夜、空は高く晴れ渡り、月が煌々と地上を照らしていた。
妖怪の姿を見ることのできる少年、夏目貴志の眠る部屋にも障子越しに柔らかな月明かりがさしこんでいた。光は夏目の眠る布団の上をなだらかに滑り、畳の上へと長く伸びていた。そしてときどき裏山の方から、木々の木擦れの音が寄せては返す波音のように、あたりに響き渡っていた。
ふいにカツンカツンとかすかに窓ガラスをたたく乾いた音が響いた。
普段から眠りの浅い夏目は、その物音に目を覚ました。部屋の窓を開け、裏庭を見下ろすと、月明かりのなかうっすらと黒い人影が見えた。月夜でなければ完全に闇に溶けてしまいそうな黒ずくめの着物に、真っ黒な長髪をもつ男、そんな妙な格好でこの家を訪ねてくる人間は、妖祓い人の的場静司以外にはいなかった。
「こんばんは、夏目君」
「的場さん?なんでこんな夜更けに」
「いい月夜なので、散歩にでも誘おうと足を運んだんです」
「わざわざ俺を誘いに?」
「眠ってしまうには惜しい、いい夜ですよ」
遠目には見えないが、的場はおそらくあの、いつもの作り物めいた微笑を浮かべているにちがいない。妖を祓うことを生業とする彼は、その浮世離れした職業のせいもあってか、まるで彼自身も妖であるかのような不思議な雰囲気をもっていた。
夏目の用心棒であるにゃんこ先生はというと、そうこうしているあいだも夏目の布団の枕元で、ぷうぷうといびきをかいて眠っている。妖気や殺気に敏感な先生が目覚めなかったということは、今ここに危険なものはないということだろう。夏目は的場に届かない程度に小さなため息をひとつついた。
「すぐおりて行きますから、玄関の方で待っていてください」
的場は、誘いを断ったところで諦めて大人しく帰るような人ではない。つまり夏目が再び床に就くためには、申し出を承諾して満足させて帰ってもらうしかないのである。こちらに選択肢を与えてくれるようなやさしい男でないということは、これまでの付き合いで十分理解していた。しかし何故こんな夜更けに散歩になど誘うのか、その行動の理由にはさっぱり見当がつかない。夏目は、的場という男が何を考えているのか全くつかめないでいた。そして、今回もしぶしぶ的場の誘いに乗ることにした。
足音を忍ばせて階段を下り、玄関を出ると、夜だというのに外はずいぶんと明るかった。的場が先に立って、塀の外へと夏目をうながす。空を見上げれば雲ひとつなく、光る星はほとんど見えない。ただまぶしいほどの光をたたえた月がぽっかりと浮かんでいるだけだった。
行くあてもなく連れ立って歩き出すと、的場は隣で、歩幅を合わせるようにゆっくりと歩を進めた。そのことが夏目にはほんの少し嬉しく、そして悔しくもあった。一見華奢に見えるものの、的場は夏目よりずっと背も高く、武道をたしなんでいるだけあって体つきもしっかりしている。横に並ばれるとその体格の差を目の当たりにすることになって、エノキだもやしだマッチ棒だと言われ慣れている夏目にコンプレックスを感じさせるのだった。
「目的はなんです?」
「なんのことでしょう」
「俺をこんな時間に外へ連れ出したのには何か、理由があるんじゃないんですか。また何か手伝いをさせるつもりですか」
「そうですね・・・きみと月が見たかった、ではいけませんか?」
的場は相変わらず口元に微笑を浮かべたまま、空を見上げる。夏目はいぶかしげに的場の顔をにらんでみたが、冗談なのか本気なのか的場の表情からはまったく読めない。
「・・・普通、人が愛でるのは十五夜じゃないんですか」
夏目も的場の目線の先にある、ぽっかり浮かんだ月へと眼を向ける。まんまるというには、すこし欠けているようだ。
「そうですね。人はいちばん美しい状態の満ち足りたものを愛でるものです。それでいて朽ちないもの、老いないもの、変わらないものというのは人間たちが長い間抱き続けてきた夢ですからね。生け花にしてもそうです、どんな可憐な花も完全に花開いてしまえば切り捨てられてしまう。朽ちてゆく姿は見苦しい、とされますからね。愛でられるのは、満ち足りるまでのもの。それを過ぎたものを待つのは、失望や叱責、無関心。だから満月を過ぎた十六夜の月は、人に見られることを恐れ、天に昇るのをためらって月の出が遅いといいます。ずっと満ち足りていて欲しいという、人の欲望がよくあらわれた逸話だと思いませんか」
「わざわざそんな話をするために来たんですか」
「まさか。ただ、君となら、十六夜を愛でるのも一興かと思ってしまったので」気がついたら、君の家に足が向いていたのですよ、と的場はまっすぐ前を向いたまま、こともなげに言って捨てた。思いもかけない理由に、顔を上げるのがなんだか気恥ずかしくなって、夏目はうつむいたまま歩き続けた。見下ろした足元には、二つの黒い影が並んで、うごめいている。
空を見上げていた的場がふと足を止め、夏目をまっすぐに見つめた。急に止まった影の動きに驚いて、夏目もふっと的場を見上げた。冷たい夜風が、二人の間をすり抜ける。

「夏目くん。今夜は、月が綺麗ですね」
作品名:十六夜の散歩道 作家名:猫沢こま