黒三郎
私は女より花の好きな方なので、開け放しの回廊から望む庭を愉しむ。睡蓮が見事と聞いて来たのだが、噂に違わぬ美しさだ。こんな大ぶりの蓮花は初めてで。
「浄土にでも来たようだな」
ようやく花に目を留めた人はそんなことを言う。
「まっこと極楽、ですか?」
澄んだ酒に唇をつけると蓮の実の香りがふんわり綻ぶ。淡い薄紅に色付く花のかたちに相応しいと、私も上機嫌。
「しかしでかい蓮だ」
「まったくあなたはそんなことばかり言う」
風雅を介さない。だが、そんな男は取るに足らないうらなりばかりの訪れるこういう店の女には案外もてるのだ。
飲みすぎたから泊まってゆくというので早々に見切りをつけて宿へと戻ることにする。市城の夜は開封ほどはいかないが中々賑やかで、東渓村などとはまるきり違う。
袖引きを振り切って煩わしい小路を抜ける。明かりのない暗い夜に蛙だけのぶうぶうとなく夜が懐かしい。
過ごした酒を掃おうと、酒気と人気のない方へ向かう。大きな川べりの柳の下にへたりこんで息をつく。
夜の川面は静かに黒く、人の一人でも二人でも平気で吸い込んでしまいそうだ。
月明りを浮かべてゆらゆらと輝く白。
急に心と体が冷える。
……吸い込まれてしまおうか。こんな無用なからだひとつ、あってもなくても構わない。
「もし」
声を掛けたのは恰幅の良い、役人風の男だった。一杯ひっかけた帰りだろうかと思ったが、酒は飲んでいないようだった。
「このような所に居ては物騒だ。追剥にやられても文句は言えんぞ」
「ふん。どうにでもなれ……」
鼻白む私を見て酔っ払いのやけくそと見下げたか、役人は苦笑して隣へ座る。
「地の者ではないな?どこから来られた」
「極楽浄土」
吐き棄てると役人は呵呵大笑。変な酔っ払いに興味を持つ変わった役人に興味が湧いてきて、顔をまじまじと眺めた。
「あんた黒いな」
「おかげさまで渾名は黒三郎さ。君は白いね」
「じゃあ、おれの渾名は白小二だ」
河岸を変えようと言われて今度はその気になった。愉快な気分になっていたからだ。
連れて行かれたのはさっきまでいた天上の楼閣とはうって変わった、場末のみすぼらしい店で、だが慣れぬ上等な酒に辟易していた舌は安い濁り酒を逆に喜んだようだ。店のおやじと役人は顔見知りで、酒はまずいが飯はいたく旨かった。
「あんたは運がいい。あのへんは本当に危ないんだ。孝義の黒三郎殿がおいでにならねば、どうなっていたことか」
おやじも他の客もそう言って私の肩を叩くので、改めて役人に向き直る。
「では恩人様、どうぞ一杯」
「これはこれは」
役人はこの町では中々の顔役であるようだ。小さな店ながら中々の繁盛店であるらしく、次々に客が訪れるが、誰もが黒三郎に口を利いてゆく。
「ずいぶん人望があるんだな」
今頃綺麗どころとしんねこの兄貴分をふと思い出す。そう思えばどこか空気が似ているか。
「そうでもないさ」
謙譲を知っている。やはり、山出しとは大分違う。
黒三郎は饒舌な私の弁をよく聞いて、よく尋ねて、またよく喋った。
役人らしい見てくれどおり男は県城に仕える胥吏で、普段は役所内に寝起きしているから屋敷に招いてゆっくり話したくても招けぬと笑って見せた。
お袋の腹から生まれでた時分から知っている顔ばかりの田舎では、今日偶然会った他人と酒を酌み交わすなぞということは滅多にない。
一夜の邂逅が愉しくて余計に色んなことを喋った気がする。どうせ二度と逢うこともないだろうから。
元々それほどいける口でもないのにたらふく飲んだので動けなくなるのは時間の問題だった。黒三郎の口利きで近くに宿を取って貰い、寝台に体を横たえたのは何時位だったか。
「……あのとき」
帰ろうとする人を引き止めてそんな話をはじめた切欠も思い出せない。
「吸い込まれてしまいたいと思ったんだ」
気弱になっていた理由も思い出せない。
「こんな体、消えても構わないと思った」
胸に巣食う黒い虚しさだけを強く覚えている。承知のうえで遊びに誘う無神経な兄貴分に強い憤りを抱いたのも覚えている。
黒三郎がなんと返したのかはよく覚えていない。
背をさする手が熱くて、顔色の変わらないこの男も酔っているのかと考えると、急にいとおしくなったことは覚えている。
男がどのような顔で私を抱きとめたか覚えていない。
私は私と兄貴分の話を、黒三郎にしていただろうか?
目覚めると一人だったから夢かと思ったが、夢でなく、日の光を浴びて別の色に活気付く町を見つめた。宿代と酒代は黒三郎が支払ってくれたようだ。路銀を少ししか持っていなかったから正直助かった。
逗留していた宿に戻ると連れは戻っておらず、あと三日ほど愉しんで帰ると酒楼の使いの者から伝言があった。
黒三郎とは県城にゆけば会えるのだろう。挨拶なりしてゆくべきかと考えたものの、饒舌であったじぶんが妙に気恥ずかしくて止した。
後の二日は町をぶらぶら歩いたり本を読んだりして潰した。白昼の光の元で見ればあの川面も普通の緑色であった。やっぱりあれは夢だったのだと思うことにした。
女と喧嘩したとかで、予定より少し早く宿に戻った連れに黒三郎の事は話さなかった。隠したというよりも、私の一握の夢など兄貴分にとってはどうでもいいことだろうと判断したのだ。事実兄貴分はぶつぶつと喧嘩別れした娼妓の悪口ばかり言っていて、私がどう過ごしたのか尋ねようともしない。
「よい町でしたか」
「そうさな。まあ、また来るさ」
馬を引いて城門を抜ける際、黒い丸襟の衣の男と擦れ違った。色黒の男の顔に見覚えがあってどきりとする。
「おい、ひょっとして今のが及時雨宋江かな」
連れは顎にある髭をひねって首をかしげる。
「及時雨?」
「なんだ知らんのか。ここいらで知らぬ者の無い好漢だ。役人の癖に義に篤く窮する者があれば誰だろうと救いの手を差し伸べる恵みの雨だとな。膚の黒い小男だって噂だが」
では、あの夜のことは私に施した恵みの雨であったとでもいいたいのだろうか。そんなわけがない、下手ッくそだったくせに。重ねた唇のぎこちなさを思い出して可笑しくなる。
「人違いじゃないですか。色黒の小男など、どこにでもおりますよ」
……また会うことも、あるだろうか。