風呂と理性
「やはり疲れた後の風呂は最高だな。なぁ、アルタイル?」
「・・・そうだな」
隣にいる男は、視線を反らしながらゆっくりと答えた。
いつもとは微妙に違う反応に、マリクは首を傾げる。
・・・暗殺の後で疲れているのか。アルタイルもやはり人間だな。
熱気がゆらゆらと立ち上り、男達の身体にじんわりと水滴を作って行く。
「キリスト教徒には風呂に入る習慣が無いそうだ。こんな気持ちのいい
ものを知らないなんて気の毒だな」
「・・・そうだな」
さっきからそうだな、としか返事が返ってこない。アルタイルの方を見ると
顔が真っ赤になっていた。汗がだらだらと滴り落ちている。
「のぼせたのか、アルタイル?」
「いや・・・気にしないでくれ」
風呂はイスラム世界では欠かせないインフラの一つである。イスラムの
教えは常に心とともに身体を清潔に保つことを重んじ、礼拝の前には
身を清める様勧めている。アサシン達もその例外ではない。支部にも小さいが
浴室があり、主に血を洗い流すのが目的で使われている。
アルタイルが支部にやって来たのは1時間ほど前。達成した暗殺の標的の周りに
多くの護衛がおり、全員を相手にしていたらいつの間にか血まみれになっていたらしい。
全員を相手にするよりさっさと逃げろよとマリクはあきれたが、あまりにも
しつこかったのだとアルタイルは言った。
「マリク、風呂を貸してくれ」
「悪いが修理中なんだ」
「・・・そうか」
別に嫌がらせのためにそう言ったわけではない。どこかの誰かが屋根で暴れ回ったので
脆くなっていたらしく、天井が抜けてしまったのである。入浴中だった見習いアサシン
が一人下敷きになったが幸いにも軽傷ですんだ。
「じゃあ、そこの噴水で洗い流すしかないな・・・」
「そうだアルタイル、久しぶりにハンマーム(公衆浴場)に行かないか。
近くに大きなのが新しくできたんだ」
「ほう」
アルタイルは目を細めた。
「・・・というわけでそこの店の果物がずいぶんと安く手に入ってな、まだ
残っているからあとでどうだ」
「・・・頂く」
アルタイルは汗と一緒に冷や汗をだらだらと流し続けていた。
来るんじゃなかった、噴水で我慢すれば良かった、と後悔し続けている。
隣を見るとマリクがにこにこと笑っている。・・・腰布一枚で!
ちなみにアルタイルは、キリスト教徒が何故風呂を嫌うかについては本を読んで
知っていた。が、まさか自分が似たような理由で苦しむことになるとは夢にも
思っていなかった。
おちつけアルタイル。このままではせっかく修復できた友情がまた壊れる。
そう自分に言い聞かせ、ぐっと手を握って耐えた。出ようとマリクに言わないのは、
風呂好きの彼が「まだ早くないか?」と言うのが分かっているからである。
「そろそろ出ようか、アルタイル。休憩室でコーヒーでも飲もう」
「・・・俺は、茶にする・・・・ッ!」
まるで永遠のように思えた時間にやっと終わりが来た。
そう思ったアルタイルに、次の言葉はまるで不意打ちのように襲いかかった。
彼の耳の近くにアルタイルがそっと顔を寄せて囁いたのだ。
「・・・どうしたアルタイル、もう限界か?」
「・・・マリク・・・ッ!」
顔を見ればさっきの無邪気な笑みはどこへやら、にやりと悪魔のように
笑うマリクがそこにいた。
「・・・まだまだだな、アルタイル」
どうやら気づかれていたらしい。