紺の羽織(桂幾)
詳しいことは聞いていない。尋ねることさえ出来なかった。
彼が血まみれになってやってきたのは店の周囲の人間がすっかり寝静まった頃、翌日の仕込みを終えてから、軽く伸びをして寝床に入ろうとしていたところだった。
横に流した髪をゆっくりととかしていると、窓の外からガタンと大きな物音がした。何事かと思って窓の外を恐る恐る覗くと、そこには見覚えのある黒髪の男が立っていた。
しかしそのうっとうしいほど長かった髪は半分以下に切断され、編み笠の奥で歯を食いしばり、「すまぬがしばしの間かくまってはくれぬか」とだけ告げると、私の承諾も得ぬままずかずかと窓から侵入してきた。
「ちょっと!勝手に入ってるんじゃないよ。」
暗闇の中でははっきりとは見えなかったが、室内の薄い光に照らされた彼は深い刀傷を受けており、一先ず手当てをしようとして現在に至る。
血を大量に失った体は冷たく、嫌でもあの日のことを思い出してしまう。フラッシュバックしたその光景を打ち消すために肩の包帯をきつめに絞める。
「幾松殿」
「なんだい、私は明日も早いんだよ。早く寝てくれないと。」
「すまぬ」
「旦那の着物出しておくから。アンタのはもう使い物にならないし。」
何故理由を聞かないのか、そう目で訴えられた気がしたが、気づかぬふりをして立ち上がる。
「ちゃんと返しに来なよ。」
その一言だけ絞り出して、ふすまを閉める。
きっと次に開けたときにはもう彼はいないだろう。
大吾も同じだった。勝手に決めて、静かに出ていった。そして私の旦那は二度と帰らなかった。
柄にもなく、両手をそっと合わせて天に向かって祈る。
大吾、アンタはああ見えてヤキモチをよく焼く男だったね。だけど大吾、あの男だけは見逃してよ。あの男は、許してやってよ。
翌朝目が覚めたら、いつもと変わらぬ日常がそこには待っていて、窓に面した部屋には、畳まれた布団がひとつあるだけだった。
「今度も置いてきぼりなんて御免だからね。早く帰ってきなさいよ。」
【終】
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ずっと前から「紅桜の時、エリザベスから隠れてた場所は幾松さんのとこだ!アニメで手当てとかされてたし!」とか考えてたんですが、文章化するのに時間かかってしまった…。のに不完全燃焼…。
あと、着物がいつもと違うから…とか色々妄想した結果。
2011.08.30