Leanúint el líomóid
「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端みじんだろう。」
そしてわたしは活動写真の看板が奇体な趣で街を彩っている京極を下っていった―。”
・・・それからのわたしは、以前とそう変わらない生活を続けた。みずぼらしく美しいものに強く引き付けられるのも、何ら変わない。ただ違うのは、以前のような道を行きながら錯覚を起こそうと努めたり、何かに追い立てられるように街にさまよい出ることが無くなったということだ。未だにふとした拍子ににえたいの知れない不吉な塊に襲われることがあるが、あのとき仕掛けた檸檬を思い起こすだけで、何だか愉快な気分になってくる。最近は知らず口元にゆるりと弧を描いている自分がいて、終始くすぐったい気分を味わったのも少なくなかった。
街から街へと、浮浪こそしないにしろたびたびみすぼらしく美しいものを求めて自然に外へ足を運ぶ日が続いた。檸檬と出会う前に好んだ花火や南京玉の他に、ここのところは空になった硝子瓶や氷が、わたしの心をそそった。硝子瓶そのものは裏通りの端にぽつんと置いてあるような物でありながら、傍を通った拍子にひょいと拾ってみると、これまた自分には予想しえない発見がある。例えばそれは硝子と瓶の曲線が作り出すぐにゃりとした具合だったり、何の変哲もないどこにでもあるような空き瓶が、その時そこに存在する「時」を映しこめる透明さであったり。
氷は、指で挟んで摘んだときのあの極度なまでの冷たさがいい。まえにも言ったがわたしは肺尖を悪くしていていつも体に熱が出ていたから、冷めることを知らないその指先で氷を遊ぶのが好きであった。もちろんそれ以外でもあの氷の中に存在する結晶の、キンッと弾けたようなあの形を眺めるのも楽しみのひとつだ。二銭や三銭のものといってぜいたくなものは、他にもたくさんある。それにさっきの空き瓶のように道端ではたと見つけることが出来るものでも、見方一つでわたしには十分みすぼらしくて美しいものになり得た。
ある早朝―わたしは久しぶりに早い時間から外に出、普段は行かないような通りにも足を延ばしてみた。少し霧がかったしんとした朝の街を、あちらこちらに視線を寄越しながらふらふらと歩いた。時折り掠める朝特有の澄んだようなあの空気の匂いは、わたしに快い落ち着きをもたらした。まだ通りの店は閉まっており静まり返っている街に、わたしの下駄で歩く音がこの静かな空間にからころと響く。その異様な響き具合に、何だか可笑しくなってまた一人でに忍び笑いを浮かべた。すると思ったより歩いたのか、早朝で暗さが残っていた空に、少しづつ薄い橙色が混じり始めていた。そして次第に青々しく輝くであろう空を尻目に、わたしは二条のほうへ戻る道に踏み出した。
あの檸檬を買った、あの果物屋の辺りについた頃にはもう日が顔を出し、街は人々と共に目を覚ましつつあった。例の果物屋はもう店を開けており、色んな種類の果物が台の上の並べてあった。実を言ってあれ以来ここを訪れていなかったわたしは、久しぶりの最も好きな店を前に、早朝で落ち着いて幾ばくか穏やかになっていた心が少し熱くなったのが分かった。こんなとき、心の変化に未だ思考がいまいち付いて行ってないわたしは、その急な変化する自分の心に一瞬戸惑う。しかしながら最近は以前よりも慣れたもので、今はただそんな自分に笑みを描く毎日だ。そうして既に高ぶりを覚えた自分を余所に置き、ちらと果物の台を見た。先日あった檸檬はやはりある方が珍しいのか、置いていなかった。しかし、その日はまたいつになく珍しい物があった。ジョウジアで採れたいう、ブルウベリィだ。
大きさもそうないブルウベリィは、籠の中にまとめて入れられていた。ころころと真ん丸な形をしているそれは、わたしの指先で十分に摘むことが出来た。少しばかり力を入れただけでぐしゃりと潰れそうなブルウベリィは、わたしに檸檬の時と似た気持ちを思い起こさせた。・・・匂いこそ匂うのは難しいが、両手で掬い上げて鼻先に持っていくと、少しばかり甘みの詰った濃厚な香りがした。そこで私は、これをまたあの丸善に持っていこうと考え、すぐ様行動へ移したわたしはブルウベリィをまとめて買った。
檸檬の時よりも、わたしは丸善にやすやすと入れるようだ。
最も、その時は自分の考え付いた事柄が頭を占めていて、そんなことを思う余裕もなかった。そして丸善に入ったわたしは、迷うことなく煙管の置かれている場所へ行った。今度は煙管を前にしても、画本の時のような憂鬱がこみ上げることはなかった。そのことにほっと息を吐いたわたしは、先ほど買ったブルウベリィを一粒取り出し、ふるりと震える指先で煙管の火皿に置いた。それをおそるおそる手に取り、口元近くまで持っていき吸う真似をしてみた。途端、まるでブルウベリィが刻みタバコみたく作用したように、煙管からブルウベリィの甘い、深みのある香りが漂った。わたしはそのまま匂いを楽しみたくて、すうっと目を閉じた――そのまま、明けることもなかったのだが。
作品名:Leanúint el líomóid 作家名:hjr