ゆめとうつつのおはなし
幼い頃の話だ。
夢の中で僕は真っ白な毛並みの子兎だった。
起きた時は何で兎?という疑問はあったけれど、夢の中の僕は当然そんな疑問を持っているはずもなく、長い耳をぴんと立てながら、ある時は野山を駆けて、またある時は雪原に埋もれ、気ままに廻っていく、不思議な夢。
その夢に何時からか登場してきたのが、一匹の狐だ。
僕はいつも狐を不思議そうに見上げ、狐は僕を食べるでもなくただ見下ろしている。
幼い僕でも分かる、食うか食われるかの間柄である狐と兎が、何をするでもなく見つめ合うのは、不思議な夢をさらに不思議にしている要因だった。
本当にただ見ているだけの狐に、僕はある時尋ねてみた。
僕を食べないんですか?
その頃から好奇心は人(その時は兎だったけど)一倍強かったんだろう。
そんな事を聞いて、本当に食べられたらどうするんだと後で思ったりもしたけれど、まあ夢だしで片づけた。
狐はその問いにまじまじと僕を見つめた後、にんまりと目を細めてみせた。
その笑みに、ぞわわっと何かが身体を駆け巡ったが、あいにく好奇心は強くても警戒心は育っていなかったらしい僕は、律儀というか無防備に狐の応えを待った。
君みたいなちみっこい兎、食べたとしても腹の足しにもなりゃしないよ。
そう言って狐はまた僕をじっと見つめた。
先ほどとは違う何かが宿る視線に、僕の兎の身体は無意識に身じろぐ。
さっきのぞわぞわ感が、今度はゆっくりせり上がってくるような、奇妙な感覚。
今更の今更だけれども、狐から距離をとったほうがいいのかな、と僕が思った時だ。
狐は、ふむ、と何やら頷いたかと思えば、僕のぴんと立った長い耳をがぶりと噛んだ。
思わず、ぴあああっと叫んで狐と距離を取る。
ななななななにするんですか!?
何って、ただの甘噛みだよ。痛くなかっただろ?
痛くはなかったですけど、でもそういう問題じゃないです!
噛まれた長い耳を狐からガードしてじりじりと後退する僕を、狐は愉しげに見やって。
だって君食べて欲しいって言ったじゃない。だから味見。
そんな事言ってないです!と叫ぶ僕の言葉に狐は知らんぷりで、ふさふさの尾を一振りさせてから、
大きくなったらちゃんと食べてあげるから安心しな。
そんな事を言っていた。
不思議な夢を見なくなってから数年後、僕は東京の池袋に居場所を移した。
ナンパだぜひゃっはー!と叫んで僕を人ごみに置き去りにした幼馴染にどうやって報復しようかと考えていると、ぽんと右肩を叩かれた。
何だもう戻ってきたのかと顔をそちら側に向けて、あ、と思わず声に出してしまった。
目の前には幼馴染から絶対に近づくなと言われ、得体の知れない人だと分かりつつも、けれど何処か気になる相手でもあった折原臨也と名乗った青年が立っていた。
やあ、帝人くん。
ど、どうも。
挨拶もそこそこに彼は僕を上から下までじっくりと眺めたかと思うと、やがてにんまりと目を細めて笑った。
その笑みに既視感を覚えた僕に青年は一歩踏み出して、顔を近づけてきた。
男から見ても綺麗な顔に至近距離でじいっと見つめられる居心地の悪さは半端ない。
居た堪れなくて、行儀が悪いと分かっていても(もう限界!)と顔を逸らそうとしたら、彼の唇に阻まれた。
そう、唇だ。
彼の薄い唇が、僕の少しかさついた唇に触れて、覆って、食んで、また覆う。
顎は彼の手に固定されて、動く事もできずに、熱と僅かな湿り気を共有する。
キスを、された。
そう認識したのは数十秒後。
うああああっと思わず飛び退いた僕に、彼は声を上げて笑う。
反応変わらなすぎ!
げらげらと笑う美青年の図は何ともシュールな光景で写メを撮ってダラーズのブログに掲載でもすれば一気に広まっていきそうなものだけれど、残念ながら今の僕はそれどころじゃなかった。
じわじわと湧き上がる羞恥と怒り。
キスをされた。されてしまった。というか僕のファーストキスを奪っておいて大声で笑うとは何事だ!
僕の中でキスの意図は完全に馬鹿にされたと変換される。当然だろう。彼はいまだに笑い声を止めない。
恨み事を一言どころかたくさんぶつけようとした僕に、彼は笑いながら言った。
大きくなったねぇ。
場違いな台詞に出鼻を挫かれる。
親戚のおじさんかよ、と思うも、出会って数日も経たない人に言われる違和感に、僕は眉間の皺をさらに一本増やした。
相変わらず小さくて細っこいけど、まあ悪くはないかな。見かけも中身も、俺の思う以上に良い方向に育っているみたいだし。これからだよね。それとももうすぐかな。
訳の分からない言葉の数々。
なのに、やっぱり既視感を覚えて、胸の奥がざわざわと騒いだ。
何だろう、この感じ。
不安にも似た感情が僕を支配する。
青年は笑みを浮かべたまま、黙って僕を見ている。
まるであの夢の中で、子兎の僕を見下ろす、狐のように。
そう、僕は子兎で、彼が狐で。
でもあれは夢で、狐は居なくて、僕の前にいるのは。
こくり、と唾を飲み込み上下する真白な喉仏を青年は捕食者の眼でただただ見つめていた。
作品名:ゆめとうつつのおはなし 作家名:いの