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天に飛び立つ銀の鳩

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ウィークエンドマーケット



 ルーピンが人波を器用にかき分けてすいすいと歩いていってしまうから、ハリーは溺れかけながら彼のあとをついていった。休日のマーケットは晴天にふさわしく混雑していて人の動きは無秩序で、けれど彼は小石を避ける程度の滑らかさですいすい進む。見失う心配はしていないけれど離れてしまうのはつまらない。声を上げようかとハリーが息を吸い込んだとき、ルーピンが振り返った。彼の目は泳ぐことなく一瞬でハリーの姿を捉える。彼は申し訳なさそうに笑って、それから道の端に避けてハリーが追いつくのを待った。

「ごめんね」

 ハリーは首を振り、いいえ、と笑って答えた。身長もストライドもまだ彼に勝てないでいるのに、このうえ人波にもまれて動けなくなっていたなどと思われたくなかった。ハリーは彼を促し、ルーピンはハリーの横を歩いた。緩い風が頭上を追い越して、枝の上でほころび始めた白い花を揺らす。

「何か見つけたんですか?」

 見上げる視線でハリーが問うと、彼はもう一度すまなげに笑った。つまらないものに気を取られてごめんね、と言うように。ええとね、と言いながら彼が指差した先には台に山積みにされたりんごがあった。どこにでもある、ごくありふれたコックスやグラニースミス。どこかの箱で冬を越した果実はこのマーケットにとてもふさわしいものに思えた。邪気のない日差しをぴかぴかと反射して、赤や緑の光が跳ねる。行き交う人の中、水色のワンピースを着た女の子がりんごをひとつを手に取り、店主を見上げた。店主が腰を落として小さな客に目の高さを合わせて礼を言い、彼女はそれに応えて微笑む。今日が穏やかな晴天でよかったと素直に思える光景だ。

「食べますか?」

 食べたいんでしょ?とからかう声音でハリーが目を向けると、ルーピンは嬉しそうに笑って頷いた。りんごひとつでこんなに嬉しそうに笑ってくれるなら、この店ごと買い占めても良いくらいだ。積まれたりんごの前に立ち、どれにしましょうか、と訊ねると、彼は小さく唸ってから真剣なまなざしで選別を始めた。なんなら全部買いましょうかと言いたいのをハリーはこらえる。たとえ冗談でも、彼がそれを喜んでくれるとはとても思えなかった。だからハリーは、ルーピンがりんごの上に視線を滑らせるのを黙って見つめた。彼の瞳の中にも赤や緑の光が跳ねてそれがとてもきれいで、だからあらゆるものに感謝を捧げたくなる。晴天に、休日に、店の親父に。
 やがて彼は確信に満ちた手つきでひょいひょいとりんごを取り上げた。彼が財布を探している隙に、ハリーは自分のポケットから代金を店主に手渡した。コインを渡しながら、どんな顔をしているかな、とちらりと窺うと、ルーピンは餌を横取りされたペンギンのような呆気にとられた顔をしていた。
 りんごがふたつ入った袋をハリーが受け取って店主に礼を言う間、ルーピンはコインを握りしめて隙あらばそれをこちらに渡そうとしていた。ポケットの中にねじ込みさえしそうな表情がおかしくて、ハリーはくすくす笑いながら店を離れた。

「あのねハリー」
「なんですか?」
「りんご代が払えないほど生活に困ってる訳じゃないんだけど」
「分かってますよ」
「払うから」
「いいじゃないですかもう払っちゃったし」
「よくないよ、君に払わせるわけには」
「じゃあ、」

 ハリーは足を止めてルーピンに向き直り、持っていた袋を彼に突き出した。胸の前に出された袋を反射的に受け取って、彼はきょとんと首を傾げる。急に立ち止まったハリーに、後ろを歩いていた誰かが驚いて文句を言っていたけれど、ハリーにとってそんなことは考慮に値する問題ではなかった。

「これは僕からのプレゼントです。だからあなたに払わせるわけにはいかない。喜んでくれれば嬉しいし、受け取ってくれないならとても悲しい。それともこんな安っぽいプレゼントは受け取って頂けませんか?」

 まくしたてるように継ぎ目なく、けれどできるだけ穏やかな口調を心掛けて言って、こたえを待つ。ルーピンはしばらくハリーを見つめていたけれど、やがてふと目を細めて笑った。りんごの袋を抱え直して、それに話しかけるように呟く。

「なんだか、ほんとうに、似てきたねえ」

 だれに、とは、ハリーは訊ねなかった。それが誰でも、味方になってくれるなら大歓迎だ。彼がりんごを受け取ってくれるなら理由はなんでも良かった。彼に笑っていて欲しい。笑っていてくれるなら理由はなんでも良かった。
 自分が知らない両親の話はとても興味深いけれど、今はそれを訊ねる時ではない。
 ルーピンは袋に鼻先をつっこんでくんくんと匂いをかいで、それからりんごをひとつ取り出した、

「じゃあ、これはわたしから」

 彼は笑って、赤い果実をハリーに差し出す。てのひらの上にある色とかたちを彼の目が正しく捉えている、そのことがどんなにハリーを安心させるか、多分、彼は気付いていない。ハリーはルーピンに笑顔を返して、恭しく両手でそれを受け取った。
 乾いた風はほこりっぽい道を辿って青い空へ抜ける。
 良い天気だから公園まで散歩しよう、そこでりんごを食べよう、とルーピンが提案し、ハリーはそれにひとつの留保もなく賛成した。途中でキドニーパイをルーピンが、オレンジジュースをハリーが買った。白い花の幌をくぐってふたりで公園を目指す。歩調に合わせて鳶色をした髪が揺れていた。この黒い髪も緑の瞳も、彼の目の中で像を結んでいるはずだ。視線を合わせたときの繋がりを、ハリーはきちんと感じることができるから。
 光は跳ねて世界に色をばらまく。
 いつかは朽ちていく色を、それでも彼に見ていてほしいと思うのは、とても傲慢な願いなのかもしれないけれど。
 ハリーはルーピンを振り仰ぐ。彼はおだやかな視線をハリーに向けた。お腹が空きました、となんでもない顔をしてハリーが言うと、そうだねわたしもだ、と彼は微笑んだ。彼の後ろには遠くまで空の青が広がっていて、ハリーは眩しさに少しだけ目を細めた。パイ、ずいぶん大きかったですよね、食べきれるかなあ。大丈夫だよ、ハリーは食べ盛りだから。先生も食べてくださいよ。うん、美味しそうだったね。ええ、あのおばさん、味には自信あるって言ってましたし。楽しみだね。そうですね。
 公園に向かう道の上、広がる晴天は人知の及ばぬところにあり、それは地上の営みにはまったく興味を示さない。どんなニュースも、明日の予定も、空の前には意味がない。
 だから目にしみるようなこの青も、彼にとってはきっと、どれほどの意味もなさないのだ。



作品名:天に飛び立つ銀の鳩 作家名:雀居