とある雪の日
それは大抵就務の時を占めるが、プライベートに割いた時間もその限りではない。
それ故にふと思い返す事があるのだ。
あの男の事を。
過去に一度だけ、アイツ個人に文を認めた事がある。
鬱屈していた虎が再び立ち上がったと耳しに柄にもなく舞い上がっちまったんだろう。
若かったと思う。
返事はなかった。いや、無くて良かったんだ。
あんな文に書き記したものなんて所詮上っ面で、アンタの心は目を見れば直ぐに理解できる。
そしてオレは確信していたんだ。アンタは絶対にやってくると。
ぐしゃり。思考を霧散させるつもりで目の前の紙を握りつぶした。
「止めだ止めだ。ちょっと休憩するか……」
凝り固まった身体を解す様に大きく伸びをし、立ち上がる。足は既にそちらへ向いていた。
「よぉ」
「独眼竜。もう仕事はいいのか?」
「大半な。少しくらい一息入れさせろよ」
訪れたのは家康に宛がっていた一室。ちょくちょくやってくるので周囲の人間も慣れたものだ。
勝手知ったる他人の家か、本人の寛ぎ方も板についてきている。
折角だから茶を点てようという家康の労いに乗った。
しゅわしゅわと湯の沸く音と抹茶を泡立てる音が小気味よい。
家康の持つ空気が満ちている気がする。悪くは無い。
出された茶を受け手の内で回し作法に則った。
一息着いたところで様子を窺っていたのかこちらを見ていた家康が口を開く。
「また思い出していたのか」
「何をだよ」
「真田の事だ。お前は顔に出やすいからな」
きょと、と目を見張るとそれだ、と苦笑される。
「アンタには隠し事は出来ねえな。そうさなァ……もう随分たつんだ」
その身を焼き尽くすかのような熱さに心奪われた。強烈な紅。
奪われたなんてもんじゃない、焼きつくされてボロボロだ。
「知ってるかアイツ、実はでこっぱちなんだぜ」
「そうなのか?」
手元の杯に酒を注ぎながら家康は応えた。寄こしてくる杯にも同様に酒を注ぐ。
あの後、二人は雪見酒と洒落こんだのだ。
休憩ついでに持ってきていた徳利をちらつかせた政宗にしょうがないといいつつ
満更でも無く付き合ったのは家康。肴はどちらともなく始まった昔話だ。
「ああ、よく言ってた。ガキの頃はご利益があると皆に触られ撫でられていたので
その部分は毛も生えなくなってしまったと。そう笑ってたな」
年取ってハゲたらわかんねーよな。まあオレは絶対ハゲねえけど。
家康も怪しいもんだよなあ、その髪型。気をつけた方がいいぜ?
そういってクツクツ笑う体はいつもの政宗で。
「酷いぞ独眼竜。だがやすやすと頭皮との絆を断つ様な髪ではなくてな!」
爺さんに成ってもふさふさだぞ。そう両手で髪を弄り胸を張ると、
言ってろと楽しそうにする政宗に少し安心した様に家康は杯を飲み干した。
「オレは」
そんなアイツの髪が好きで、手の内で踊る髪が面白くて近くにいた時は無意識に手遊びをしていたみたいでな。
言われてやっと気が付いた位なんだけど。アイツのでこに御利益があるなんて話を聞いた時も、
じゃあオレもその御利益とやらに肖ろうかって触れたら固まりやがるし。
そんな間柄じゃねえのに初心なとこは変わらねえ。面白かったぜ。
ああいうの見るとむくむくと何か湧きあがってきてなあ。
『いっそうの御利益に竜の加護も持っていくか?』
『加護とは』
不思議そうにする顔の前に移動してにこり笑ってキスを落としてやったら氷みたいに固まりやがった。
オレは奥州の生き神だぜ?そう突いてやるとでも頭から湯気が出そうな程に紅く色づいた。ああ面白え。
ひとしきり笑って満足したのか再びちびちびと酒を煽る。
どちらも言葉少なく、ただ目の前を流れる雪景色を映す。
しんしんと降る雪が周りの音を吸い取っていく。
今出している声さえも奪っていくかのように。
雪は降り積もる。全てを覆い尽くすかのように。
「好きだったんだな」
「そうだな」
最期にアイツの首級をあげたとき、オレは何も感じなかった。
こんなものかと思った。消失感。焦燥感。そんなものに合致する様なものは無くて、
ただはぁはぁと息を吐き事態を冷静に対処するためのみに頭が働いていた。
真田の首は、重かった。
そう小さく呟いた眼は遠くを見ていて。
喉を通っていく酒が段々味気を無くしていく。
少し飲み過ぎてしまったかもしれない。
そんなに酷くは無いが末端も冷たくなってきている。
「これはみな思ひしことぞなれしよりあはれ名残をいかにせむとは……」
「大和歌か」
「ああ。燻ってる。アイツの炎に身を焼かれちまったオレの負けなんだろう」
深い深い痕を残していきやがった。
けどオレはこの歌みたいに苦しんだりしないぜ。望んで戦った結果だからな。
もっと年食ったらこうしていま話してることも懐かしく思うのだろう。
その時にまた思い出してやるから今はまだ我慢して寝ておけ。
お利口に出来たらまたオレの好きだったアンタの髪撫でてやるよ。
酒も尽き思考も鈍く感じる。そろそろ終いにしようと
政宗が口を開きかけたと同時にそれは家康から滑り出た。
「なあ独眼竜。知っているか?雪は春を呼ぶんだ」
空に出された手に落ちた雪がじわり溶けて水に成った。
「奥州の雪は冬を呼ぶのだろう。だがわしのところは春を告げる為に雪が降る。全てが動き出す時だ」
凍てついた冬を越え暖かな日差しを呼ぶ。
もう三河の地は春を呼び始めたのだろうか。
奥州の冬は、まだ長い。
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これはみな思ひしことぞなれしよりあはれ名残をいかにせむとは
【通釈】
こんなのは全部覚悟していたことだ。あの人と馴れ親しんだ時から、
ああ別れのあとの名残惜しさをどうすればよいのかと。
【補記】
別れた恋人への未練を詠む。成就し難いことを知りつつ始まった恋。
離絶の後の辛さは初めから予想していたではないか、と自らに言い聞かせても、
断念しきれぬ苦しみからは、やはり逃れようもない。
参考サイト【http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadayosi.html】