すすき野の狐
夕日に照らされたすすき野からぴょこぴょこと覗く獣耳。
ふわりとした尾がゆらゆらと、すすき野の間だから見て取れる。
いつも仲間から言われている、言葉を忘れていた。
それくらい早く帰りたくてしょうがなかったのだ。
嬉しくて嬉しくて、この気持ちを早く伝えたくてたまらない。
(きっと驚くかな、驚くよね!)
あともう少ししたら大好きな兄がいる場所、と言うところで帝人は首筋を持ち上げられた。
驚愕と恐怖で躯が一度跳ねたと思ったら硬直する。
心臓が痛いくらいに縮んだ、と思った瞬間、耳に心地よい声が聞こえた。
「帝人」
「いざにぃ!」
名前を呼ばれて嬉しくて仰ぎ見ればそこには黒い狐が一匹。
後ろで揺れる尾は九本。狐の中でも最高峰の力を持つ、帝人の自慢の兄、臨也だった。
帝人は先ほどの恐怖など忘れて尻尾を嬉しさのあまり揺らしてしまう。
「あ、あのねいざにぃ!今日ね、ぼく、」
けれど、帝人を見つめる臨也の表情がとても険しくて、帝人は言葉を詰まらせた。
「い、いざにぃ・・・?」
不安になって、兄の名前を恐る恐る読んでみる。
臨也は息を深く吐くと、帝人を掴んだまますたすたとすすき野を歩いて行った。
帝人が何度も臨也を呼ぶが、臨也はいっこうに帝人を見ようとしない。
(ど、どうして怒っているの・・・?)
何故兄が怒っているのか理由が分からず、帝人の耳と尻尾はたれてしまう。
(折角・・・伝えたいことがあったのに)
潤みそうになる瞳を、瞬きをしてなんとかこらえる。
そうこうしているうちに、帝人はいつも寝床にしている場所へと連れてこられていた。
そして、寝床に下ろされたかと思うと思いっきり頬をはたかれる。
耳にいたい音が、静かな場所で響き渡った。
最初は驚きで臨也を見つめていた帝人だが、だんだんと頬の痛みが脳へと伝わっていくと、
とうとう先ほどまで堪えていたいた涙が溢れてきてしまう。
「ふ、ふぇっ」
痛む頬を押さえながら、ボロボロ涙をこぼす帝人に臨也は怒気を隠さない。
唇を一文字に結んで、帝人を睨み付けている。
「いざにぃぃっ」
どうして兄が自分をはたいたのだろうか、全く想像が付かない。
どうして怒られているのかも解らない。解らないことだらけで帝人は泣きぎゃくるしかなかった。
「何で俺に殴られたのか、怒られているのか解らないって顔しているね」
「うぅ・・・っ」
帝人の泣き声とは真逆の落ち着いた臨也の声が帝人の鼓膜を揺らす。
喉が焼けるように痛かったので、帝人は首を縦に何度も振った。
「本当に解らないの?帝人」
「う”・・・うぅん」
解らない、解るはずがない。帝人は混乱する頭で考えてみるが、どうしてもその答えがでなかった。
また、臨也の重たいため息が零れる。
条件反射のように帝人が躯を跳ねさせると、臨也は帝人の前で膝を折った。
帝人は涙で歪む視界の先で、臨也を見つめる。
臨也の瞳に情けない自分の姿が映っていた。
「帝人、俺は、俺たちはあれほどお前に言ったよね?
決してすすき野から姿を現してはいけないって」
「ぁ」
「どうしてお前はそれが守れないの?俺がどんな思いだったか解らない?」
帝人の瞳が驚きで見開かれる。
臨也は指先の腹で帝人の涙をぬぐってやった。
そして諭すように、ゆっくりと帝人に対して言葉を紡ぐ。
「お前はまだ一尾だから、何も出来ないただの狐だから人間にとっては格好の獲物なんだよ。
・・・他の狐が目の前で殺された所を何度目にしてきたの」
「っ」
「さっきだって、猟師がお前を狙っていたんだよ?」
臨也の言葉に、帝人は全身の血の気が引いたのが解った。
足先が冷たくなり、躯が先ほどとは違う意味で震え出す。
「本当に俺は生きた心地がしなかった」
臨也の万感の籠もった言葉に、帝人は俯いてしまう。
臨也がどんな思いでいたのかなど、想像するまでもない。
そして、今帝人がどうしてこうやって生きているのかも。
「ごめんなさい・・・っ」
臨也に幻術を使わせてしまった。それがとても辛かった。
臨也は九尾だ。狐の中でもそうそう九尾になれる狐はいない。
よって仲間を、一族を守るために臨也はその力を結界として使っている。
その結界は強固でなければいけない。だから他の事に力を使うことができない、はずだった。
それなのに、帝人を守るために臨也は幻術を使った、使わせてしまった。
「ごめんなさいっ・・・」
悔しくて申し訳なくて、また帝人は涙をこぼす。
ぬぐってもぬぐっても止まらない涙。
弱くて守られてばかりの自分が嫌でたまらなかった。
「本当に・・・もう、二度と俺にこんな気持ちを味合わせないでよね」
臨也はそう言うと泣いて震えている帝人の躯を優しく抱きしめた。
「ごめんなさっ」
「もう、もういいよ・・・謝らないでいいから」
頭を優しく撫でられて帝人はさらに泣き出してしまった。
兄として、狐として尊敬する臨也。
(もっと、もっと僕は強くならないと・・・ごめんねいざにぃ)
何度も撫でられ、背中を優しくたたかれていると帝人も段々と落ち着いてきた。
「泣きやんだ?」
「・・・うん」
「そ、良かった。で?さっき帝人は俺に何か言いたかったんじゃない?」
「え?」
「あれ?さっき会った時すっごく嬉しそうに名前を呼ばれたから、何か言いたかったのかなぁって」
「あ、えっと・・・」
もじもじとし出す帝人を臨也はにまにまと見つめ続ける。
基本、臨也はこういう兄なのだ。
あのときは嬉しくて嬉しくて早く臨也に伝えたいと思ったが、
考えてみると九尾の臨也に話すのは恥ずかしくてしょうがない。
それでも臨也は帝人から話してくれるのを待っている。それはもうすっごいにやけた顔で。
帝人はあー、とかうー、とか声を発した後、顔を俯かせたまま呟いた。
「げ、幻術が・・・その、狐火がね、・・・出せるようになった・・・の」
尻つぼみになる言葉を臨也は聞き取ってくれた。
「良かったねぇ。ふふ、これで帝人も一歩前進だね」
「う、うん」
ちらり、と臨也を見上げれば嬉しそうに微笑む兄の顔。
そして、臨也の後ろで揺れる九つの尻尾。
いつか、自分の後ろにもあのような立派な尻尾が生えるのだろうか。
「早く帝人もこっちへおいで。そして俺と一緒に狐の頂点に立とう」
そうなれたらいいな、と思いながら帝人は臨也の言葉に頷いた。