夜鷹の瞳
巷にはこんなお伽噺がある。
『世界に突然現れた不思議な力を持つ［迷宮]。幾人もの屈強な男たちが、あるいは豊かな知識を蓄えた賢人たちが挑んだが誰一人としてそこから還ってくるものはなかった。しかしある日一人の少年が挑み、彼は山のような財宝を携えて生還した。そして更に[迷宮]を攻略し続け、未開の地に王国を築き上げた』
――――その男の名は『七海の覇王・シンドバッド』
しかしそのお伽噺のような出来事は実際に起こったこの世界の歴史だった。
*
若き王シンドバッドが迷宮攻略の後に築いたシンドリア王国。絶海の孤島と云われた未開の地を、未熟ではあるが他国の協力のもとに着々と整い豊かにさせていった。その功績を支えたのが貿易だ。多くの国と交流を持つことで文化や資源が豊富に集まり、また商人がそのまま住み着くことでそれらが融合し独自の文化が生まれ出す。シンドバッドも時間が許す限り貿易船に一緒に乗り、他国の政治を勉強して参考になる制度は自国に反映させた。その中でも特に力になってくれたのは貿易の要、バルバッド王国の国王だった。
中には王族でもないシンドバッドが国を作ることに好意的でない国も多かったが、彼だけは自分の知識を惜しむことなくシンドバッドに教えた。そしてシンドバッドも国王の恩義に応えようと熱心に学び、その姿勢に惹かれた各地の人々がシンドリアに身を置き彼を支えてくれた。
何年か経ち、まだ歪ではあるがようやく国としての輪郭が見え始めた頃にこの事件は起きた。
そして奇しくもこの事件によって彼の、しいてはこの国の運命は大きく変わったのだった。
*
「もうすぐ雨季が来るのに西側の地盤が不安だな。工事の進行具合はどうなってる」
「範囲が広いので先に住宅のある地区を優先させてそこは完成しております。しかし全域となるとまだまだ時間が…」
地図を指さしながらシンドバッドが指摘すると官吏は語気を弱くした。この様子を見ると状況は厳しいが、西には田畑が多くある。それは大事な備蓄にもなるからあまり被害を出したくはない。シンドバッドは眉間に皺を寄せ顎に手をやった。
そしてふと、地図の上に空白を見つけた。
「ここはまだ耕作してないところだよな？」
「はい、そこはまだ使用用途が決まっておりません。移民が増えておりますからいずれ住宅を作ろうと開けてあります」
「ならすぐには必要ないわけだな。よし、この辺で川を決壊させよう！」
「えぇっ！！？」
あまりに突拍子のない発言に官吏は思わず素のリアクションが出た。
「だから、堤防のこの部分に堰を作って、溢れるようだったらここを壊して水の逃げ道を作ってやるんだ。どのみち毎年堤防が崩れて被害が出ているんだろう？しかも場所が予測不可能な為に堤防全域に土嚢を積み上げて備えなきゃいけないから面倒だ。だがこれなら場所が決まってるし、何もないところだから住民に被害は出ない」
どうだ！と胸を張るシンドバッドに官吏も否の声が出なかった。確かに理屈は合ってる…気がする。だが大胆な発想に踏み出す勇気がない。住民も説明したところで反対するだろう。
葛藤の時間が思いの他長くなる。判断に困り恐る恐るシンドバッドを伺うとただじっと見つめてくる目とぶつかりたじろいだ。
「………王がそう思うのならば、仰せのままに」
沈黙の末に官吏はそう言って頭を垂れた。その反応にシンドバッドは複雑な心境だった。
どうも自分は冒険慣れしているせいか、時々一般人からすると突拍子のないことを言っているらしい。それでよくバルバッド国王を驚かせた。その中には名案だといわれたものもあればもっと慎重になれと反対された意見もあった。シンドバッドは彼らにもそうやってダメならダメと言って欲しいのだが上手くいかない。
「…じゃあ、今年はそれで乗り切ろう。もちろんいずれ開拓する土地だからいつまでもこんな方法は取れないから対策はまた考えよう。住民には俺が話をする」
「わ、わかりました。それでは日程を調整します」
自分たちが説明に行かなくていいのだとわかると、官吏はほっとしたように顔を晴れさせて一礼し、退室した。
ぱたんと閉じた扉を見届けるとシンドバッドは深く息を吐いて椅子の背にもたれかかった。王に対して遠慮があるのだろうがもっと部下と打ち解けなくてはいけないなと新たな課題に頭を悩ませた。
すると新たに扉をノックする音がして今度は別の官吏が険しい表情で入ってきた。
「陛下、ご報告する議がございます…」
「なんだ？」
問うと、告げるのが躊躇われるのか官吏は誰もいないというのに辺りの様子を窺い、シンドバッドに耳打ちした。
「北東の地区を統治しているギルドが今朝何者かに殺されておりました…」
不穏な内容にシンドバッドも目を見開いた。だがすぐに平静を取り戻し官吏に続きを促した。
「ギルドは寝室で発見されました。死因は刺殺。背中から心臓を一突き、かなりの手練と見られます。傷の幅などから推測するに、他の領主と同じ犯人だと思われます」
「これで四人目か……」
今年に入りシンドバッドの頭を悩ませている事件のひとつだ。シンドリアでは国をいくつかの自治体に分割してそれぞれに領主を配している。国の基盤がきちんと出来上がる前に国民が増えてしまったのでとりあえずそのような措置を取ったのだが、中には国の監視が甘いことを利用して私腹を肥やしたり、薬や奴隷の違法取引を密かに行なっている者がいるようで、調査をしている最中の出来事だった。
しかし国の先手を打つかのように疑惑のある領主が暗殺される事件がこのところ続発していた。
「今回のギルドはどうだ？」
「はい、やはり他の領主と同じように…。ギルドは依存性が高いために国で輸入を禁止していた薬草を密かに手に入れていたようで、屋敷の地下倉庫から大量に発見されました。恐らくどこかへ売りつける気だったのでしょう…」
「ということは未遂だったんだな？」
「はい。まだ薬草を熟成させている段階でしたのでその心配はありません」
「そうか…」
他国や民に被害が出ていないのがまだ救いだった。だがこれでいよいよ『膿』の調査を急がなくては行けなくなった。
「俺は調査に行ってくる。留守の間の国事は頼んだぞ」
シンドバッドは官吏に命じると軽装に着替え、宮殿を後にした。