夜行運転
「手前は俺のことを何だと思ってんだ」
ごめんね、って。ちょっとからかってみただけだよ。緩く苦笑しながら助手席に腰を下ろすのを横目で確認しながらキーを挿入する。以前と比べて、柔らかくなったものだとしみじみ感じればこちらの方が感慨深くなりハンドルに伸ばす掌の爪先が少し粟立った。サングラスを畳み、胸元のポケットに落とす。あれから確かに色々あった、俺にも、色々あったけれど、こいつにとってはきっとそれ以上に甚大な事柄だった筈だ。心象も、目途も変わった。どれだけの反動があったか計り知れない。
だがどうかこれは幸せだと言ってほしい。俺もお前も幸せ者だと、吐き捨ててほしい。そうでないと、きっとまた、覚束なくなってしまうだろうから。
歩道が一定のリズムを保って流れていく。ただ正面は暗闇を孕んで、かえってこちらに向かって来ていた。一瞬、一瞬だけしか視界に横切らない歩行者達がおぼろげに映る。車に乗る度何時もこの何処か浮世離れした光景に置いて行かれ、厭世的な気分を演出されることがある。このまま、。そう続け掛けて、小さく首を振った。太股の上で拳を握り締めれば、人差し指に嵌めたシルバーリングの冷たさが、ふわりふわりと未だ足の浮いた気分の自分にとってただ一つの現実味だった。
助手席と運転席の左右に一つずつ設置されたスピーカーから先程から引っ切り無しにばかに快活な調子で、味噌汁にもずくを入れて食べるとこれまた珍味と言う至極如何でもいいトークが聞える。夢現が抜けなく内容は主立ったそれだけしか、確かに噛み砕けなかったが、目を瞑ると既に話は音楽のランキングへと移行していた。「そういやこの間スーパーで食ったな」。バックミラーを一瞥しながら彼は言う。
「なんでスーパー?」
「試食」
「味噌の宣伝か何かかな」
「そんなもんだろうな」
そして会話は途切れた。他愛も無いやり取りに、撫で下ろされた胸にああ思念する余裕も無かったのかと他人事のようにそう思う。何か自分を構成していた主軸が羽音を立てて崩れ落ちるような確信めいた予感があったのに、世間はまだ俺を許していなかったようだった。
車はコンビニの駐車場に停まった。そう言えば煙草切らせてたんだっけ、窓越しに分厚く白光りする店内を覗いていたら肩を引かれそのまま骨張った掌の力の侭シートに抑えつけられる。冷気に宛てられた髪が、頬に掠まれ思わず肩が動き、乾燥してかさついた唇も抑えつけられた。微かに瞠った後に、そっと目蓋を閉じる。一面の常闇が待っている筈だったのに、通俗的な光は遮断しきれていなかったらしい。暗くない。それが何か穏やかで、狂おしく優しいものだから少し泣きたくなった。シズちゃん。こういうの、幸せって言うのかなあ。