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ハイドロゲン
ハイドロゲン
novelistID. 3680
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 ねえシズちゃん。そう続ける声に、歯が痛む。軋む音。口内が酷く乾く、食道から這い上がって来る菓子パンを懸命にやり込めた。声変わりが完全に成された後だが、まだ僅かに高く響く科白は宛ら今こうして自分のバックに付けている晴天のようなものであって、こいつは、こんな人外まで範疇に治めたのかと取り留めのないことを考えた辺りで、はとし正気に戻った。漸く焦点を合わせることが出来れば臨也は屈託なく、だけれど精根からの歪みを所々に隠し切れていない(と、思う)笑みを浮かべている。
 何用だと喉を潰れようが、一頻り声という声に感情を任せ張り倒してやりたい気もしたが夢中の後の自分には少しだけ煮が重い。と言うより、放っておいて欲しかった。単純に一人にしていて欲しい。ああ、今もお前みたいに上手く立ち回れる人間だったら良かったのかもな。羨望にも似た言葉は内心でこれ以上にない罵倒として昇華された。視界の片隅で臨也がつまらなさそうに瞳を細めたのが見え、見たくも無く腕で視界を覆う。

 「シズちゃんてば。ねえついに俺の声も分からなくなっちゃった?来れるとこまで来たね」
 「黙れ」
 「きゃーこわーい。…あぁ、でも君からその低次元な細胞を搾取してしまえば何も残らないじゃない。もう少しこの由々しき事態を焦るべきだよ、詰まる所何が言いたいってだからさあシズちゃんがこうも大人しいと何とかは風邪を引かないなんて陳腐な言葉の信憑性を考え直さないといけないでしょ。徒労だよ徒労!」

 飄々とおどけて見せる横顔はいっそのこと清々しい迄の殺意を覚えさせてくれるものだが、それすらも態となのだと言うことはあくまで熟知している。兎角こいつは口だけは達者なのである。無論癪な方向に。世に蔓延る禍々しさの母胎とでも称すべきだ。所謂元凶だ。源泉だ。根幹だ。ただそこまで辿り着いた思考を、今日の俺と来ればこいつガキっぽいな位に奇跡的に捉えることが出来ていた。それに臨也は矢鱈に焦燥したらしく、然し決して晒すまいと何とかと選れた話題を探していたことも妙に覚ることが出来た。表現が捩れているだけで理路が通っていないことは、俺でも判る。
 臨也は居所の悪そうに胡坐をかいて、徐に呼息をついていた。そうして再び続ける。
 単に眠くて、変に頭に血が上ることが出来なかったから平静になれていただけなのかもしれないが、大凡厭きていたのだと思う。こいつと俺という人間だけを中心に回る世界にも、収まってしまう周囲の殺風景な連中も、何となくだがきっとこいつと取り持つ全てを放棄すれば容易にそこから抜け出せる気がしていた。素っ気なく当たれば、何時しかこいつも離れ、またこいつの所為でガチガチに塗り固められた状況も変わるんじゃないかと。実際の話は知らない。若しかしたら寧ろ無知だった平和島静雄という一つの化け物を、目的は何れにしろ匿ってくれていたのかもしれない。ただそんなことはどうでもよかった。差し当たり理由も無く、抜け出したかったのだ。二人の世界で共生し合ってるより少しだけ外を見てきたかっただけだった。その後は、またその気に食わない顔を撲りつけに帰って来てやるか位にも考えていただけだ。一瞬だけの気の遅れが齎した、何の価値も無いそれこそ取り留めのない稚い願望。
 しかし途端よく止まらない声が途切れたものだから、腕の隙間を縫って盗み見れば笑みは無くまっさらな表情で彼は空を仰いでいた。艶やかな黒髪が昼下がりの微風に撫でられ、薄く開けた形の良い唇で小さく呼吸し、瞳が一面の青に染まっている。妙に映えていて、物悲しくて、ふとした喪失感に襲われて、傍らで何て阿呆なことを考えていたのだと虚脱した。殴り合う、罵り合う、嬲り合う、殺し合う。だけれど接近し合う。そしてまた離れ合う。それしか出来ないのに、今何をしようとしていたのか。自分だけ、逃げようとしていた訳じゃない。どくどくと気味悪く鼓動する心臓に言い聞かせ、掌に爪先を食いこませた。もし、どちらかが純粋な愛というものを少しでも知っていたのならばと夢見る。そうしたらこんなに苦々しくて歯痒くて冷たい思いを、往々に抱かなくても済むのだろうか。

 「ねえシズちゃん」
 「……うるせえ」
 「わかるよ。今、死ぬ程意味ないこと考えてた」
 「……」
 「…俺も、だからね」

 空から視線を外し、今日初めて双眸が絡み合う。緩く笑んだ影が何を思っているかはまだわからない。ただこいつに今以上に迫ることは無いが、今以上に別れることも無いのだろうから結局時の流れと共に理解出来るようになるのだろうと予感するとじわりと悪寒が走った。ただ、悪くない悪寒だった。
作品名: 作家名:ハイドロゲン