町内ライダー
あれから数日。何故か、タクミと睦月と望美は、件のおでん屋のテーブル席に座っていた。
後日、マユと共にスーパーに来た男は三人の顔を覚えていた。お世話になったからお礼におでんをご馳走したい、と招かれたのだった。
三人とも別段何もしていないので断ったのだが、普通に帰ればいいという言葉に勇気を貰った、というよく分からない謎の理由で押し切られた。
カウンターの向こうでは、おばあちゃん、と呼ばれている店主が動き回っている。
店内は賑わっており、主に仕事帰りのサラリーマンがおでんを肴にコップ酒を楽しんでいるようだった。
男の名は天堂ソウジ。エプロンに三角巾の家庭的な姿で、狭い店内を忙しく往復している。
先日の見事な身のこなしからは想像しづらい家庭的な風情を漂わせているが、店内の雰囲気に何の違和感もなく馴染んでいる。
マユも同様に、客の注文を聞きおでんを運んでいる。
タクミは知らなかったが、望美の情報によると、このおでん屋『天堂屋』は、知る人ぞ知る穴場、隠れた名店なのだという。
「お待たせ。さ、食べて食べて」
「あ、どうも、いただきます」
にこやかな声で、ソウジがテーブルに皿を置いた。大根、玉子にがんもどき。他の具はない、この三種類だけを出すこだわりが食通から高い評価を受けているのだとか。
早速食べ始めると、成程美味しい。大根は煮込み具合が程よく、味もしっかりと染みている。向かいの睦月は夢中で黙々とがんもどきを頬張っていた。
おばあちゃんの方針で、無駄口は叩かず食べる事がここのルールらしい。客も心得ているらしく、大方の客は一人でのんびりとコップ酒をちびりちびり嘗めている。故にタクミ達もなかなか口は開きづらい雰囲気があるので、黙々と食べる事になる。
「いらっしゃいませー」
ガラガラと音を立てて引き戸が開き、新しい客が店内へと入ってくる。向かいの睦月と望美が、何かびっくりした様な顔をして入り口を見ていた。
「……橘さん?」
「睦月、望美ちゃん」
振り向いて見ると、黒いTシャツの上にモスグリーンのシャツを羽織った男が、やや意外そうに二人を見ていた。ハカランダにもよく顔を見せる、橘朔也がそこにいた。
「あれ、君たち橘さんの知り合いだったんだ」
「……橘さん、ここの常連なんですか?」
にこやかなソウジの言葉を受けて、睦月が質問すると、橘は軽く首を縦に振った。
「知り合いなら丁度いい、相席でお願いしてもいいですか?」
店内は混み合っている。橘は軽く頷いた。タクミ達にも特に断る理由はない。
橘は、望美の向かい、タクミの隣の椅子へと腰掛けた。たまに剣崎と一緒にハカランダに来るが、タクミは親しく話した事はない。生真面目そうであまり口数が多くない印象があった。
「橘さん仕事帰りですか?」
「そうだ。お前達もバイト帰りか」
「ええ……何か、おでんをご馳走したいからって。それにしても橘さん、ここも常連なんですね。一体何件通ってるんですか」
「分からん。数えた事がないな」
睦月が橘と親しいのは知らなかったが、気心が知れた様子で話している。
「ここは最近知ったんだが、大根が絶品でな。つい食べたくなってしまうんだ」
「その気持はよく分かります。でもいい加減、炊飯器と食器と冷蔵庫ぐらいは買ってもバチは当たらないと思いますよ」
「家は寝に戻るだけだ、必要ない」
「寝るっていうか……布団もベッドもないじゃないですか」
話を聞いていると、この橘という男は食道楽らしかった。全く想像がつかない。
しかし、炊飯器と食器と冷蔵庫、布団やベッドがないというのは一体どういう事なのだろう。一体どういう部屋なのだろう。どうやって寝ているのだろうか。
謎が多すぎる。
橘と睦月が低い声で話しているうちに、橘の分のおでんが到着した。
今まで生真面目そうに凛としていた橘の表情が、おでんを頬張ったとたんに緩み目尻は垂れ下がり、箸を付けるや無心に頬張り続けると、最後は皿を持ち上げて汁まで飲み干した。
……何て、幸せそうに食べるんだろう、この人は。
横でその様子を呆気にとられながら見つめ、タクミは橘という人物に対する謎が更に深まったのを感じたのだった。