Sophist
アスミタは瞑想の中を漂っていた。
苦しみに満ちた世を憂い、散っていく命の儚さを悼み、それでも人は何故生まれてくるのかを考え続ける。
彼の閉ざされた視覚以外の感覚が捉える地上は、安らかな場所ではなかった。
餓えも闘いも決して止むことのない、むしろ安寧とは正反対のところにあるのに、女神は如何なる理(ことわり)を持って、「この地上を救う」と言うのだろう。
正義も、大義も、掲げる旗が違えばまた、その数だけの形が存在するというのに。
その中で己の成すべきこととは何なのか。
ただ聖闘士としてより多くの敵を倒すことが、女神の望みなのか。
本来異教徒である筈の自分が、乙女座の星の下に生まれたその真の理由は何処にあるのだろうか……──
常ならば更に深く思考の淵に沈んでいく筈のアスミタだったが、今日は珍しく彼の邪魔をするものがあった。
彼を落ち着かなくさせたのは、先程から注がれている「視線」──
アスミタは人々の視線に慣れていた。
彼が盲目だと知った相手の、憐れみや同情、好奇や差別の眼差し。
或いは黄金聖闘士に対する畏怖や恐怖。
己の容姿にどれ程の価値があるのかは知らぬが、賛美や敬愛のみならず、あからさまな欲望を向けてくる輩も少なくない。
そんな視線の数々を、アスミタは実害がない限り全て黙殺してきた。
だが今こうして注がれ続ける眼差しは、不快でこそないものの、その熱心さにおいて無視するのは難しかった。
「──私に何か用かね、レグルス」
彼はついにたまりかね、傍らの少年に声を掛けた。
少年は処女宮の床に膝を抱えて座り、数刻前からその大きな瞳でアスミタをじっと見つめているのだ。
「……うーん。用って言うか、何だかズルいなぁと思って」
「狡い?私が?」
思いがけない返答に、アスミタは戸惑った。
傲慢だの、得体が知れないだのと言われることはあっても、狡いと言われたのは初めてだ。
「俺はさ、相手の強さを知る為にはいつも目を凝らすんだ。そうやってじっと見ているうちに、ソイツの力や拳やスピードがつかめてくる。相手の癖や隙とかも」
「そうらしいな」
レグルスの類稀な戦闘センスについては、アスミタも聞いたことがある。
闘えば闘う程強くなる、天才と名高い少年ならではの言葉にアスミタは頷いた。
「でも、どんなに目を凝らしても、アスミタの強さの限界が見えてこない」
「……私の技は精神に干渉する。肉眼で見たところで、すぐさま理解出来るものではあるまい」
「だから悔しいんだ。どんなに頑張ったって、これじゃアスミタを超えられないじゃないか」
「超える必要があるのかね?肉弾戦において、私は君に遠く及ばない。君には君の、私には私の、それぞれ闘い方があるということだ」
「……でも、ズルいよ。凄さが判っているのに、それが見えないなんて」
道理の通じぬ子供は厄介だ──アスミタは内心溜め息を吐いた。
「それから──」
「……まだあるのかね」
「アスミタはそうやって、目に見えないものを感じたり、声を聞くことが出来るんだろ?」
「全部が全部という訳ではないが」
「……じゃあ、俺の父さんの声は聞こえる?」
「イリアスか……私は直接会ったことはないのだが、そう言えば聖域を過ぎる風の中に、時折それらしい気配を感じることはある」
「ほら、やっぱりズルいよ」
少年は拗ねたように、足を投げ出した。
「シジフォスも良く風と話をしている。父さんと話しているんだって。父さんは何処にでもいるって言ってたけど、でも俺には父さんの姿は見えないし、声も聞こえない」
「…………」
亡き父親を思う気持ちは、多少なりともアスミタにも理解出来た。
そこで幾分口調を和らげ、少年を諭す。
「それでも君は、イリアスとの思い出がある。シジフォスもいる。聖闘士は肉親との縁(えにし)が薄い者が多い中、恵まれているのではないかね?」
「うん。それは判っている」
レグルスは素直に頷いた。
「でも、『さすがはイリアスの息子だ』とか、『シジフォスが見つけてきたことだけある』とか、俺がどんなに強くなっても、当然だって思われるのが悔しい。誰の力も借りずに聖闘士になったアスミタが羨ましいよ」
「……初めから光も才もある君こそ、誰もが羨む存在であると思うが」
「皆、俺を見てくれる訳じゃないんだ。俺の後ろの父さんを見ている」
ふいにレグルスの手が頬に触れた為、アスミタはビクリとして身を引いた。
「アスミタはいつも人の世の苦しみについて考えてる、って女神様が言ってた」
「──ああ」
「俺には人の気持ちが判らない。痛みとか苦しみとか。どんなに目を凝らしたって、人の心が見えるわけじゃない。なのに、アスミタは目が見えなくても、俺より沢山のものが見えるんだ」
「…………」
「……ズルイよ」
吐息のような囁きと共に触れてきたものがレグルスの唇だったことに、アスミタは内心狼狽し、その手を払い除けた。
「大人をからかうのは止めたまえ」
「一番ズルイのは、アスミタがちゃんと俺を見てくれないことだ」
「…………」
「俺がアスミタより年上なら──せめて同い年だったら、こんな風に子供扱いさせないのに」
「──レグルス……」
「決めた。今度生まれてくる時は、絶対にお前より先に生まれてやる。一年でも、一ヶ月でも」
「それは君が決めることではない。神がお決めになることだ」
「例え肉親との縁(えにし)が薄くてもいい。地を這いずったって、人の痛みや苦しみが判れば、お前の見ているものが見えるかもしれない」
「……愚かな若獅子よ。望んで人の世の苦しみを求めるか?」
「それで──お前が俺を見てくれるのなら」
アスミタは何と返答して良いのか判らなかった。
自分でも言葉に詰まることがあるのだな、とぼんやり思う。
しかも、こんな子供相手に翻弄されるなんて──
「──あ、シジフォスが呼んでる。行かなくちゃ」
勢いよく立ち上がる少年に、正直ほっとした。
あの目で見つめられると、心の奥底まで覗かれているような気がして落ち着かない。
「ねえ、アスミタ。いつか目を開けてくれる?」
「見えぬものを、何の為に?」
「俺が知りたいんだ。アスミタの目の色」
「…………」
「約束だよ」
一方的にそう宣言し、処女宮を走り去って行くレグルスを見送ったアスミタは、微かに苦笑した。
「今度生まれてくる時は──か」
己の生に何の躊躇いも、迷いもない、光の獅子。
自分は光がなくても、何も不自由はない。今までも──多分、これからも。
光を知らぬまま、自分は逝くのだろう。
だが、一度くらいは無邪気な子供の笑顔を見てみたかった、と思った。
乙女座のアスミタがジャミールで死んだとの報せがレグルスの元に届いたのは、聖戦開始後まもなくのことだった。
「……やっぱり、ズルイじゃないか」
無人の処女宮に安置された、祈る乙女の姿を模した聖衣に向かい、少年はそう呟いた。
FIN
Sophist/詭弁家
2012/3/19 up