(タイトル無2)
これほどまでに切羽詰ったことが、かつてあっただろうか。
生きてきた15年余りの中で、一番の緊張を感じていた。
祖国ブラジルを離れ、テレビや雑誌でしか知らなかった日本にやってきた。
その国文化と生活観の違いのギャップに驚かされた時でさえ、こんな風に冷や汗をかき、手の震えが止まらないなんてことはなかったはずだ。
―――――日本には“ニンジャ”がいる。
それは祖国での常識だった。
けれど日本には“ニンジャ”はいなかった。絶滅していたのだ。
しかしその術と精神は、現在の日本国民にちゃんと受け継がれていたらしいことを、今日突然知ることになった。
それを、赤髪の友人から学んだ。
そして。
ニンジャが操る「忍術」とやらを、これから発動させるのだ。
日本にいればそれは誰でもできるのだ、と友人は言った。
両手を顔の前で組み合わせ、人差し指と中指を立てる。
この手の形を「寅の印」と言うらしい。「印」とやらでニンジャは術を発動するのだという。魔法使いがステッキを振るようなものなのだろう。
こめかみから一筋、汗が流れ落ちた。
ワビ・サビ、ゼン、スシ、フジヤマ、サムライ。
エキゾッチック、アンド、ファンタスティック・ジャパン。
心の中で呟きながら、音もなく標的の背後に近づく。
両手にパワーを集めた。
標的がこちらの存在に気付いたようだが、こちらの一手が先だ。もう遅い。
優しい母さん、無職の父さん。
祖国のみんな。オラに力をわけてくれ。
『ジャッカルは今、ニンジャになります!』
「秘伝・体術奥義、“千年殺し”!!」
ずぎゃしゃっ。
「ぬあぁぁぁっ!?」
真田弦一郎は、ものすごい衝撃を受けてもんどりうって倒れた。
頭の中が真っ白になる。
「すまない、弦一郎」
言葉の割には露ともそう思っていないような無表情は、親友の柳蓮二のものだった。
テニスコートに伏臥した状態で、未だ何が起こったのか理解できかねる真田は、首だけ捻って差し出された白い手を呆然と見つめた。
臀部に残る鋭い激痛。
柳の背後で腹を抱え、涙を流しながら笑っている連中は、見知った仲間達である。
「カンチョー・・・?」
思わず呟くと、柳が秀麗な両眉を顰めて真田の腕を取り、その身を引っ張り起こした。
「申し訳ない。そういうことだ」
先程と同じく言葉の重みが彼からはどうにも感じられないと真田は思う。
鳩が豆鉄砲を喰らった顔、の表現が当て嵌まる真田のそれに哀れみを感じたのか、柳はここに至った経緯を語り始めた。
事の発端は、テニス部レギュラーである丸井と仁王のじゃれ合いだという。
「仁王が丸井に、挨拶代わり、とやらかしたらしい。憤懣やる方ない丸井はそのまま柳生の元へ出向き、その仕返しをしたというわけだ」
柳が一旦言葉を切ると、丸井が笑いながら続けた。
「仁王の場合、本人にやり返すよりは柳生狙ったほうが効果あるからな」
「まったく、いい迷惑です」
笑いすぎて身体の力が抜けたのかその場に座り込んでいる仁王を、柳生は眼鏡の位置を直しながら睨みつける。
これまでに散々したであろう抗議を繰り返そうと口を開きかけたらしい柳生は、しかし柳の話の腰を折ることを避けて縋り付いてくる仁王の腕を振り払うに留めたようだ。
「で、そうだな、その連鎖が面白いとでも思ったのだろうな。丸井と仁王が、次のターゲットを柳生に指名したわけだ」
「・・・」
真田は無言で柳生を見た。
コホン、とひとつ咳払いをする柳生。
「チェーン・ミスチーフを途切れさせるな、と言うものですから仕方なく・・・。桑原君には悪いことをしました」
仕方なく、と後悔している素振りだが、実のところ彼も面白がっているのではないかと真田は邪推する。
それくらい、真田の心と身体に与えられたショックは大きいものだった。
「しっかし、ジャッカルの時は傑作だったよな! あいつマジでカンチョーが忍者の武器だと思ってるぜ!?」
「丸井君も、酷いことを教えるものです・・・」
「ほんになぁ」
「仁王君! 貴方に同意する権利はありません!」
「プリッ」
ほぼ蚊帳の外状態で、くだらないやり取りを聞かされている真田は、沸々と湧き上がる怒りを懸命に押さえていた。
息を大きく吐くことでその怒りをなんとか逃す。
「で? ジャッカルはどうしたんだ?」
その問いに答えたのは柳だった。
「ああ。不覚を取ってしまった自分自身にあまりにも腹が立ってな・・・」
続きを彼は口にしなかった。
「フッ。怖いねぇウチの参謀は」
仁王も何かを知っているようだが、言わずとも彼の末期が真田には想像できた。
憐れだな、ジャッカル。
真田は瞑目する。
おかげで、怒りは完全に収まったようだった。
「それで弦一郎、次はお前の番だというわけだ」
「・・・そうか」
憤りを感じはしたものの、事は他愛ない中学生同士の悪戯だ。
目くじら立てたところで致し方あるまい、と真田は衝撃で手放し地面に放りっぱなしだった愛用のラケットを拾い上げた。
真田の予想外の落ち着いた態度に、柳が首を傾げてみせる。
「余裕だな、弦一郎」
「当然だ。ガキの悪戯にいちいち本気で腹を立てることもあるまい」
「お前にも降りかかってきたのだぞ?」
「下らないお遊びが仁王から丸井、柳生、ジャッカル、蓮二ときて俺にまで回ってきた、それだけだ」
部活を始める号令を掛けようとする真田に、柳はやれやれと肩を竦めた。
「わかっていないようだな弦一郎。お前にも回ってきたのだぞ?」
「しつこいぞ蓮二。そんなことはわかって・・・」
言いかけて、ハッとした。
「フフ、弦一郎。どうやらわかったようだな」
無表情を崩し、柳は小さく笑った。
それは僅かな表情の変化だったが、真田にはわかる。
彼が何かを楽しみにしている時の顔だ。
慌てて柳の背後に並ぶ面々を見る。
ある者は期待に満ちた視線で、ある者は気の毒そうな眼差しで。
「まさか・・・」
そう。
彼が言っていたのは、被害者役が回ってきた、ということではなかった。
真田にも加害者役、ジャッカルが言うところの「千年殺し」を操る術者役が回ってきたのだぞ、と言っていたのだ。
押され気味で苦しいゲーム中でさえ感じたことのない焦燥感が、一気に真田を襲った。
「次は誰に回してくれるんかのう、真田」
口元を歪めて仁王が笑う。
「あ、そうそう。赤也は修学旅行でいないんだっけな」
丸井があさっての方向を見ながら呟く。
「残念ながら、どうやらこれはレギュラー内だけのお遊びと・・・」
と俯き加減で眼鏡を押し上げる柳生。
「赤也を除いて7人中6人が餌食となった。達成率85.7%だ」
目を瞑ったままの柳。
耐えきれずに真田は噴火した。そんな計算いらん。
「き、貴様ら! 俺を殺す気か?!」
自分が誰に術を施すハメになるのか。
それを考えてしまった真田は気が遠くなった。
「あれ、どうしたの。皆早いな」