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緑の海

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蝉の鳴き声が、見えない壁を作り出すようにわんわんと庭に降り注いでいた。残り少ない命を謳歌せんとばかりに、静謐を湛える空気を震わせる。
真夏の庭園では長く伸びた木々の深く鮮やかな緑が、暑さを増幅させる日差しを遮っていた。緑の底はこんなにも涼しいものかと秀吉は低く唸る。
秀吉の友である半兵衛の根城がある稲葉山まで、秀吉は久々に遠駈けに出向いた。夏の盛りに半兵衛が調子を崩したと聞きつけたので、それを見舞うためである。
高い空から照りつける太陽はどんなに馬を駆っても逃さないとばかり追いかけ、背中をじりじりと。それが、稲葉山に着き、離れにある茶室まで続く庭まで案内された時にはもう跡を追う暑さは消え去っていた。陽の光を嫌う友人の城らしいと、秀吉は心の中で苦笑するしかない。
先頭を行く門人が「太閤様」と、立ち止まり木立を眺める秀吉を心配するように声をかけてきた。
薄暗い緑が沈む風景と、苔の湿気た香りと、きりきりと舞い上がる蝉時雨が共存する庭は、静と動が無理矢理切り離されたようなちぐはぐな印象を受けるが、作った人間のことを考えると同時に納得も出来る。豊臣秀吉が知っている竹中半兵衛という男は、普段の冷静さとは別に、嵐に似た激情を不安定な精神の均衡の中で有している男だった。
秀吉は門人の後について再び歩を進めた。緑や苔が生い茂り、その隙間を縫って落とされる緩やかな木洩れ日も、うっすらと影が伸びた石畳も、全て蝉の声に飲み込まれていく。

離れの茶室は、ひっそりと庭の奥に佇んでいた。まるで仙人が好んで住まう隠れ家のようだ。門人が膝を折り、引き戸を静かに開けるので誘われるがままに秀吉は茶室へと入った。
中は真夏だというのに、湿っぽい庭園以上に暗かった。三つある窓のうち二つには簾がかかっており、部屋の主が茶を点てるための明かり取りだけが頼りだった。涼しさよりも、ひんやりとした冷気が秀吉の汗に濡れた身体にまとわりつく。
上座に座る、恐らく半兵衛であろう人影から「遅かったね、秀吉」という声が投げかけられた時、その生気を欠いた声色に秀吉は眉根を寄せた。室内に満ちた苔むす黴臭さの中に、消しきれない死臭を嗅ぎ取ったのだ。

「久しいな、半兵衛」
「来るという書簡は届いていたからね。君にここまで足を運ばせるなんて……軍略における情勢が芳しくない、とは言わせないよ」
「ふん、北条を握り潰すなど容易いことよ……半兵衛、体はどうだ。声に覇気がない」

くすりと声を立てて半兵衛は笑った。目が暗がりに慣れてきても、秀吉は友人の表情を伺うことは出来なかった。本当に笑っているのか、それとも無表情でやり過ごしているのか。仮面をつけた友人が、暗闇の中で更に何かに覆われているような心地だ。
ふいに、己の目の前にいるのは本当に竹中半兵衛だろうかと秀吉の胸に不安が過ぎった。声と姿形を借りて現れた狐狸の類ではなかろうか。そうでなければ、この死臭そのものであるような不吉な香りは、何処から漂っているという。
暑さとは違う、じっとりと嫌な汗が秀吉の背中を伝っていく。それでも目の前の友人は、涼やかに汗一つかかず笑みを浮かべているのだろうか。嫌な予感を振り払うように、秀吉は茶を点ててくれと半兵衛に薄く笑みを向けた。

「そうだね、久しぶりに点てようか。君のために」
「久しぶり?ここは茶室であろう」
「ここで寝転がって本ばかり読んでいるんだよ。太陽の光は入らないし、何より涼しい。暑さに根負けている僕にはお誂え向きさ」

愉快そうに半兵衛は言うと、崩していた風な姿勢を正して茶碗に湯を注ぎ始めた。
ひやりと冷気が籠もる室内では、さすがに蝉時雨も降り注がない。それでも意識を外に飛ばすと、数え切れないほどの命を叫ぶ声が、渦になって離れを取り囲んでいるのを感じる。
秀吉は暗所に馴染んできた目を瞑った。友人がどんな表情で茶を淹れているか知らない。友人が顔や体を自ら隠している限り、知らなくても良いことなのだと秀吉は改めて考える。
狐狸に化かされようが、嘘をつかれようが、間違いなく竹中半兵衛という人間は確かに存在している。豊臣秀吉は竹中半兵衛という男と共に、ここまで歩んできた。例え、死臭を振りまいていたとしても、今も共に生きているというのは疑いようもない唯一の「事実」なのだ。

「どうぞ、姿勢を楽に」

作法に乗っ取った合図に秀吉は思案から目を覚ました。いつの間に簾を上げたのか、小窓から薄い光が差し込んでいた。外の木々が障子と重なって淡い緑の影を作り出す。遠くから聞こえる蝉時雨は細波のようで、緑の海底に沈んでいるような錯覚を秀吉は覚えた。水底ならば、陽が差さないのも、冷たい死臭で満ちているのも道理である。
想像以上に痩せた男が、秀吉の目の前にすっと茶碗を差し出した。上品な濃茶の茶碗の中で、鮮やかな緑が揺らめいている。
半兵衛は骨のように白い表情で笑っていた。秀吉は黙って友人の顔を見詰めていたが、お互い一言も発しないまま時が過ぎていく。
やがて、秀吉は茶碗に手をつけた。ほろ苦いが口当たりは優しく、どこか媚薬のように甘い。旨いと呟くと、半兵衛は「今度は君の点てたものが飲みたいな」と軽い調子で返答をした。

「君は、僕に何も訊かないんだね」
「これ以上、何を訊けと」
「君は優しいけれど、その優しさは捨てなくちゃいけないよ秀吉。僕は君の駒だ。駒は使い捨てだ。使えない駒を捨てるのは、将である君の役目だ」

何を馬鹿なことを。
暗闇の中で見ていた時よりも、友人が光に紛れて消えてしまいそうで秀吉は手を伸ばした。その手を半兵衛は拒否するように、しかし何処か甘えるように取って、指先を絡めた。人肌に触れるのも久しぶりだなと半兵衛は、秀吉の体温を確かめるように手の甲に唇を寄せる。そうしてやっと半兵衛は満足そうに、心から笑ったように秀吉には見えた。
弱々しく冷えた体が、真夏の日差しを受けていた熱のせいで溶け出してしまわないか、秀吉はぼんやりとした不安を抱いたまま半兵衛の素顔を眺め続ける。
永遠に変わることのない自然界での事象の壁にぶつかったちっぽけな二人は、生を謳う緑の海の、寄せては返す細波の底に、身を任せ黙って沈下していくしかなかった。
作品名:緑の海 作家名:米田米子