語れぬ愛
まるで人間みたいだなと思うが、自分たちを形成しているのが人間なのだから仕方がない。
そう、仕方がないのだと、その時もそう思いながらフランシスはアントーニョの家の台所にいた。喉が渇いたと宣うアントーニョの為に水を取りに来たのだ。当の本人はベッドの中で草臥れている。
ピレネーを越えて隣に住むアントーニョとは古くからの付き合いであり、それ故にしがらみも多い。味方になったり敵になったり、繰り返される人間の愚行に付き合わされる遣る瀬なさを埋めたくて、初めて彼を押し倒したのはいつだったか。
アントーニョは拒みもしなかった。運命を嘆くにも、知らないふりで笑うにも傷付け合いすぎた自分たちにとって、セックスはちょうどいい手段だったのだろう。以来だらだらと続いている仲だが居心地は悪くない。
事が終わり、アントーニョの上から身体を退けて沈んだシーツはさっきまで干したてで日の匂いがしていたのに、今は二人分の汗で湿っている。白い波にくるまれて隣の男を見ると、まだ熱が引かないのか短い息をつきながら虚空を眺めていた。いかにも健康的な胸が上下しているのを見ているとまた劣情が沸き上がって来そうな気がして、フランシスは気だるさに任せて目を閉じる。
「…喉めっちゃ痛いんやけど」
息を整えながらアントーニョが呟いた。せっかく視覚を遮断したのに次は掠れた声。無自覚にも程があるとため息をついて、フランシスは薄く瞼を開けた。
「声出しすぎたからでしょ」
「誰のせいやと思っとんの」
おどけて目配せをするアントーニョに、普段のフランシスなら同じ調子で返すことが出来ただろう。けれどこの日に限って、突拍子もない言葉が口から零れてしまった。
「愛してるからね」
「………はい?」
アントーニョの瞳と口が大きく開いた。フランシスがそれを確認した次の瞬間、
「あははははっ!!何その真面目な顔っ!!」
「え、おい…ちょっと」
「相変わらずくっさいこと言いよるなぁ!!流石はフランスさんや」
アントーニョが大声で笑いだしてフランシスは呆気に取られてしまった。けらけらとベッドの上を転がりながら腹を押さえるのをぼんやりと眺めるばかりだ。今のはもしかして馬鹿にされたのかとか、それ以前に俺は何を言ったのだろうとか、完全に行先を見失った彼の思考が引き戻されたのはアントーニョが厄介なことを聞いてきたからだった。
「で、その愛って何なん」
喉が痛いと言いながらもまだ笑うアントーニョの目尻には涙が溜まっていた。可愛いと表現するには少し精悍な頬はまだ赤い。また誘われているような気分になりながら問いかけに応えるべく母国語をあれこれ思い浮かべたフランシスだったが、
「…俺が愛と言ったら愛でしょうよ」
「よう解らんなぁ」
何となく、はぐらかしてしまった。だが問いかけてきた本人はそれ以上追及せず、喉渇いたわとベッドから起き上がった。が、ふいにその動きが止まる。
「あかん」
「何が」
「足に力入らん」
へにゃりと笑って、フランシスの頬をつねってくる。
「お前のせいやぞ」
「はいはい、代わりに取ってくるから」
「おおきになー」
そんなやり取りの末、フランシスは台所に一人佇んでいる。水の入ったビンはすぐ見つかったが寝室へ帰る気になれないのは、先ほどのアントーニョの問いに応えられなかったことが引っかかっていたからだ。
(何だろうね、俺のあいつへの愛って)
あの時、何と言えば良かったのだろう。
アントーニョを可愛い、とはあまり思わない。仮にも同年代の男だ。色っぽいはあてはまるかもしれない。実際、先ほどからの一連の彼の言動はことごとくフランシスの胸をときめかせている。だが艶かしいのとは少し違う。戦う姿の勇ましさも知っているから、夜の雰囲気よりは明るい日差しのイメージが強い。
仲が良いと言うには戦いすぎている。だが裏腹に、こうやって褥を共にする程に心を許しているのも確かだ。少なくともフランシスにとって、それは多分に重要な要素である。
この関係は一体、何なのだろう。
愛を語る言葉なら幾らでも持っていると自負していたのに…こんな慰めの、腐れ縁のような相手への言葉が見つからないとは。いや、むしろこれが愛と名のつくものだったのかと、ぞっとしないことに思い当たってフランシスは考えるのを止めた。
もしかして。
いや、もしかしなくても。
無意識に漏れたのは深い深い溜め息。
「遅い!!喉からっからや」
ふらふらとベッドに戻ると、アントーニョはフランシスの苦慮などお構いなしでビンを奪い取った。ごくごくと喉を鳴らして水を飲み、ぷはあ生き返るわぁと先ほどまでの色気の欠片もない独り言を溢す彼を見て、一体どうしてこんなことに気付いてしまったのかと途方にくれた。
気付かなければ良かったのに。
また一つ、諦めるものが増えてしまった。
きっと己の運命と同じで、恋にも諦めが肝心なのだ。足掻けば足掻くほど深みにはまって身動きが取れなくなる。そんな不様な自分など自覚したくないし、愛に長けた国としてのプライドが許さない。
だって仕方がない。
自分は人間ではないし、アントーニョも同じである以上報われる恋など存在しないのだから、さっさと諦めてへらへらと笑っていればいい。
そうすればきっと、穏やかに全てが過ぎ去るだろう。このままアントーニョとの居心地のよい関係を続けていけるだろうし、いつかはこの気持ちに気付いたことも忘れられるはずだ。
諦めるのは得意だ。
だから、きっと大丈夫。
「ほんまおおきになー」
「いえ、どういたしまして」
「お前も水いる?」
だがそう言って差し出されたビンと笑顔に対して、フランシスはうまく笑い返せた自信がなかった。