-Noise- プロローグ
一話:緑の娘
とある貴族の屋敷。
そこはひどく暗く、そして狭かった。あまりの恐怖に二人は互いに縋りながら、息をひそめ、強く眼を閉じた。壁に阻まれ遠くからは騒がしい喧噪と乱入者と両親の怒鳴り声が聞こえる。
ここは大きなチェストの中だった。よく似た顔の少女と少年が、少女のスカートの膨らみに埋もれるように抱き合っている。
その少女、ミクはどうしてこうなったのかと思考を巡らせていた。
その日、思い返しても何も変わったことはなかったはずだ。朝は可愛くてやんちゃな一つ下の弟の声で目が覚めて彼の手で、少し不格好だったけれども、自慢の長い髪を二つに結ってもらった。昼は母と一緒に、朝のお返しということで弟を着せ替え人形にして遊んだ。シンプルなデザインのシャツとベスト、黒のズボンをはかせて花のモチーフの小さなブローチをつけて落ち着く。その後は父が少し早くに帰ってきたので皆で夕食を住ませて一息ついていたところに、その乱入者は現れたのだ。
鮮烈な赤を見る前に、子供達はすぐにこのチェストに押し込まれた。「静かにしてなきゃだめよ」そういって扉を閉める母の顔は、少しでも二人の不安を和らげるためだろうか、最後まで微笑だった。
ふと抱きしめている弟から喉のひきつった音が聞こえて彼女は焦った。泣けば見つかってしまうかもしれない。彼女は自らも嗚咽を抑えつつ、必死にささやいた。
「男の子が泣いてちゃだめ。貴方は私が守ってあげるから、怖いのなら耳を塞いでいてね」
「ミク姉様は、怖くないの?」
「貴方もいるし父様も母様もいるの。何を怖がるのかしら、泣き虫さん」
気をそらすために少し軽やかな口調で言えば、うまく落ち着いてくれたみたいだ。いや、本当はそれほど巧く笑えなかったのかもしれない。
「姉様こそ耳を塞いでいて」
彼は瞳にたまった涙を拭う。
「僕が姉様を守るよ」
扉を後ろに、姉をかばうように背を少し伸ばしてから彼はそう言った。声は震えていたが眼光は強かった。この暗闇でその緑が焼き付く幻想を見るほどに。
小さな弟の成長を見て、下から見上げるようにミクが微笑んだときだ。
近くで大きな音が鳴った。
それは意図的なものだったのか流れ弾だったのかはわからない。
衝撃に頭が壁にぶつかる音がした。撃ち落とされた小鳥のように、彼は彼女のもとへ落ちてきた。
彼女の顔に、服に、手に、暖かい何かがまとわりつく。白い思考に赤だけが残る。先ほど焼き付いた緑も染め上げるような鮮烈な赤が彼女の顔に降り注ぐ。悲鳴。
(喧噪が怒声が大きくなる、大きく、大きく。なのに何も聞こえない。うまく泣き止んでくれたかしら?それすら確かめられない)
ひどく不快に思えたそれはやがて鼓動のような一定のリズムを刻みだす。声がした。
(ねえ、守ってくれる?)
(あの子は私の手の中にいるはず)
(欲しいものはあげるよ。そうしたら、守ってくれる?)
のびる手の幻想と、驚きに弾んだ声。
「ミクオ、私が貴方を守らないことなんて無いわ」
光が差し込む。軋んだ音ともに扉は開かれる。
まぶしさに目覚めた。
どこか夢から抜けきれないまま辺りを見回す。
ここはノイズ達を保護する協会から与えられている一室だ。一人では広すぎるくらいなのに、そこかしこにおかれた植物達の為の植木鉢ですこし窮屈そうに見えるのが彼女の部屋だった。侵入をこばむように乱雑に置かれた植木鉢の中で、ひとつしかない窓から入る陽に緑が背伸びしている。
動き出した思考のなか、巧く形にならなかった残像がすり抜けていくのを感じて首を傾げた。
「おはよう、ミク姉様。どうかしたの?」
後ろから少年の腕が伸びてきて、優しく抱きしめられる。薄いネグリジェ一枚ではその体温が心地よかった。
ここに来ることになった頃から、少し変わってしまった弟。それでもミクは変わらない返事をする。
「おはようミクオ。夢を見ていたの、もうよく思い出せないのだけれど」
「夢なんてそんなものじゃないの。それより、姉様が寝坊なんて珍しいね、でも早く水をやらなきゃ皆拗ねちゃうよ」
言われて気がついた。乾いた土に水をねだる植物達の声が聞こえる。
そう、聞こえるのだ。
葉のざわめき、枝のこすれ、ゆるやかで断続的なその成長でさえ、ミクには言葉に聞こえる。これはノイズとなる前からある力だった。「緑の貴族」と呼ばれる一族的な才能。あの厄介な雑音とは違うのだ。
今も昔もこの力のことは気に入っている。基本的に穏やかな彼らは、他の人達みたいにミクオを無視したりなんてしないから。
大急ぎで用意をすませ、葉に雫を作ってやると喜びの声が聞こえた。思わず微笑む。
扉が叩かれる音がした。
無視したのはわざとだ。それでもためらいなく扉は開かれる。
「おはようございます。ミクさん」
そこに立っていたのは協会の白い制服を着た少女だった。
どこか不安げな紫の瞳と銀の髪を無造作に束ねた色素の薄い彼女の名前はハクといい、協会の研究員だ。とはいえまだ下っ端で、連絡係としてよく協会内を走り回っていのを見かける。
こちらへ来る素振りを見せたが、植木鉢に遮られた道を通る気にはなれなかったようだ。そうして無表情に、義務的に告げる。
「仕事が来てます。あとで詳しいことを聞きに来てください」
そう言って、入ってきた時と同じく無愛想に出て行こうとした彼女をミクは一度だけ引き止めた。
今まで多くのものに、幾度となく繰り返した問い。
「私の弟に挨拶はないの?」
「私には貴方の姿しか見えません」
「本当に失礼な人達ね、皆、何度言ったらわかるの!この子はここにいるじゃな、あ、待ちなさいよ!!」
突然のヒステリックなミクの叫びをものともせずに、今度は本当に出て行った。
ミクは知らない。苛立でうずくまる自分の頭をなでる弟が、彼女の眼にしか映らぬ弟だと思っている何かが、そんな時どんな表情をしているかなど。
作品名:-Noise- プロローグ 作家名:catakom