葉月と弥生。
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梅の芳しい香りが初春の庭を満たしている。
澄んだ淡い色の青空を、小さな黒い鳥影が過っていく様を、庭に面した縁側に腰を下ろし、葉月はぼんやりと見上げていた。
鳶の声だろう。少し間抜けにも聞こえるその声に、くすりと笑って目蓋を閉じる。
弥生呉服店の奥にある庭は、幼いころから幾度となく出入りしてきた場所だ。
同い年の幼馴染みたちと一緒にかくれんぼをしたり、木登りをしたり、色々なことをして遊んだ記憶がある。葉月にとっても少なからず思い出のある場所だ。
けれど、記憶の中の自分は、いつも皐月と卯月と一緒で、今のように一人きりでこの場所を訪れたことはなかった。彼らは今、東京の大学に通うため、この町にはいない。
かく言う葉月も大学は県外へ出ていたのだが、先年の春、大学院への進学と同時に故郷に戻って来た。それ以来、葉月は時折こうして、一人でこの場所を訪れるようになった。
「葉月ちゃん、お待たせしました」
やわらかな声が自分を呼ぶ瞬間、今でも胸が高鳴る。
己の名がとても特別なものに思えるその瞬間が、気恥ずかしいけれど幸福だと思う。
そう思う心に嘘を吐く必要などないのだな、ということに気づいたとき、葉月はこうして一人で弥生に会いに来ることに躊躇いを覚えなくなった。
葉月はにっこりと笑って振り返った。
「ありがとう、会長!」
弥生が縁側に置いた盆には、二人分の緑茶とお茶菓子が乗っていた。
それを見て、葉月が歓声を上げる。
「うわあ、桜餅だ〜! 私、今年初めてだ」
「うん、実は僕もそうなんだ。毎年お取り寄せしてるお店の季節のお菓子に、ついこの前追加されているのを見つけたら、どうしても食べたくなっちゃって」
道明寺の桜餅は、ふんわりと丸く、いかにも春らしい桜色にほんのりと染まっていた。
そのありさまが、何となく目の前のひとに似ているように思えて、知らず葉月の口許がほころんだ。
「うれしい! じゃあ、さっそくいただきまーす!」
「ふふ。どうぞ召し上がれ」
更に添えられた竹の菓子楊枝で小さく切り分けて口に運ぶ。
やわらかなもっちりした感触と、品の良い餡の甘さにほのかな塩味が、何とも絶妙だ。
「あー、しあわせー……」
「喜んでもらえてよかった。ご褒美になったかな?」
「え?」
「葉月ちゃん、最近ずっと忙しそうだったから。おつかれさま、てことで。ね?」
そう言って、弥生は薄茶の瞳を細めて微笑む。
その言葉が自分に向けられているのだという事実に、とっさに胸が詰まった。
「わ〜ん、ちょう嬉しい! 会長ありがとう〜!!」
「いえいえ。むしろ僕の方こそ、こうしてお茶に付き合ってもらってお礼を言わなくちゃいけないのに」
「何言ってるの。付き合ってもらってるって言うなら私の方じゃん。いつもいつも愚痴とか聞いてもらっちゃってさ。お菓子もお茶もご馳走になりっぱなしだし……」
「気にしないで。僕でも葉月ちゃんの役に立てていることがあるなら、とても嬉しいよ」
その笑顔に、葉月は幸福と共にかすかな痛みを抱え、にっこりと微笑み返した。
誰にも惜しみなく分け与えられるそのやさしさが、自分だけのものになればいいのにと願っていた日々があった。
自分だけのものにならないのなら、いっそ誰のものにもならないでほしいと願ったこともある。
自分勝手だな、と振り返ってみて思うけれど、愚かだと笑い飛ばすことはできなかった。
その頃の想いの痕は、今もまだ自分の中に塞がり切らぬまま残っていることを、葉月は知っていた。
(………でもね。あの頃と今は、少しだけ違うんだよ)
声には出さず、葉月は目の前のひとへ呼びかける。
すると、まるでその言葉が届いたかのようなタイミングで、彼は顔を上げて葉月の目を見た。
不覚にも、一瞬息が止まった。
「葉月ちゃん?」
小首を傾げて微笑みながら、彼は葉月の名を呼んだ。
ずっとずっと特別だった。
今までも、これからも、それはきっと変わらない。
どれだけ経っても。他の誰かに恋をしても。
(――――だいすきだよ)
その言葉は、あの頃も今も、彼には届かないけれど。
「私にも……、何か会長のためにできることがあればいいのに」
そんな風にぽつりと呟いたら、弥生はパチパチと目を瞬いたあと、ふふ、と口許に手を当てて小さく笑った。
「葉月ちゃんが笑っていてくれたら、それで充分だよ」
やわらかな声音に、葉月はぐっと込み上げたものを飲み込んだ。
こんなにも幸福で、こんなにも哀しい。
けれど、彼にはいつだって笑っていてほしいと思うから、葉月はいつだって、彼の前ではとびきりの笑顔でいようと決めたのだ。
「――――変わんないなあ、会長は」
いつか、このひとにも恋が訪れますように、と願っている。
これまでの願いが何一つ叶わなかったのが、その代償だというならそれでもいいと、今なら思えた。
「えーと……? 僕、もしかして何かまずいこと言ったかな?」
不安そうにこちらを窺う弥生の表情に、葉月は思わずぷっと吹き出す。
その反応に弥生はますます慌てた様子だったけれど、葉月は声を立てて笑うばかりで、何も言わなかった。
いつか自分の願いが叶う日がきたら、誓いを破って、ほんの少しだけ泣いてしまうかもしれない。
そのくらいは許してもらわないと割に合わないわ、と葉月は心の中でこっそりと呟いた。