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ダイヤモンドパレード

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暦の上ではとうの昔に春を迎えているはずなのだが、流石に夜ともなると肌寒い。階段を登りながら、帝人は小さく肩を震わせる。その間にも風は容赦なく頬を撫で、背筋を舐めていく。薄着で出て来てしまった事に対して少し後悔がよぎったが、今更どうにも出来ない事は知っていた。そもそもあと数秒耐えれば済む事なのに、そこまで考えを巡らせるのは無駄でしかない。瞬き、息を吐く。当然、白くは無い。手に持ったレジ袋が音を立てて揺れた。
少年の心は浮いていた。
浮いているのだから、寒さなんて本当はどうでも良かった。このままぶらりと街中に消えてしまう事も一瞬本気で考えていた。他人事のように、恐ろしいと口にして、実際には呼吸しかしていない唇を歓喜に震わせ、一方で貪欲に日常を求める。ざわめきから離れた、この閑散とした土地に存在している事に安堵している。
帝人はどこまでも正常だった。
だから扉の前に立っても、ノブへ触れる事をしなかった。

青が見開かれる。
異世界に放り込まれたとでも形容すれば良いのか――どちらにせよ今の帝人に現状を説明する言葉は不要であろう。様々な色を溢れさせた、ネオンの山、人の群れ、歓声、悲鳴。どれもが新しく、鮮明に映る。
それは高揚でもあり、漠然とした不安でもあった。登りつめたアパートという頂上で、混ざり合って訳の分からなくなったものを抱いている自分は、どこまでこの世界に溶け込めるのだろう。ここ数日、そんな事ばかり考えている。疲労を実感しがたいのは、そのせいなのかもしれない。小さく笑いながら、どうしようもなく魅力的な光景から目を離した。
改めて握ったドアノブはひやりと冷たく、そこからも冬を思わせる。

「…紀田君?」

ゆっくりと押し開くと、中は予想外にも静かだった。否、ただ静かなだけならまだしも、深夜のせいかその空間はひどく不気味で、今しがた高揚していた帝人の心は急速に萎んでいく。何とか持ち直そうと唾を呑み、踏み出した右足から独特の嫌な音が響く。古い事は分かっていたものの、この場面でそういった事をされるといい気持ちはしない。
引越しの手伝いをすると訪ねて来た幼馴染は、確か帝人が出かける前は相変わらずのテンションで、しかしてきぱきと作業をこなしていた(途中からは疲れもあってかだらだらとしていたが)。正臣のこういう所は変わっていないのだな、と思う。外見こそ大きく変化していたが、自分の知っている紀田正臣は確かにまだそこに在って、帝人はひとり充足感に浸ったのだった。ぎし、と床を踏みながら、彼の頭は漸く原因を探るべく動き始める。大人しくなったはずの心臓を再び浮上させ、唇には笑みを乗せた。
充足だけでは、まだ何か欠けていた。

幾分か少なくなっているダンボールに身を預け、正臣は眠っている。灯りはついたままだ。予想通りの光景だが、手元の夜食と見比べると、どうしようか悩む方が重要である。しかし状況に反して帝人は愉しんでいる。いつも以上に気を遣いながら歩を重ねるが、元々勘の良い彼がぴくりとも動かない。半端に開いた唇がゆるく呼吸を繰り返すのみで、瞼が震える気配すら見られなかった。
買ってきた夜食を適当な場所に置き、帝人は静かに腰を下ろす。友人の無防備な様子をじいと眺めていた彼だったが、ふと下に目をやると、適当に投げ出された両手が映り、そこで小さな違和感に気付く。正臣の心境を考えれば、気付いてしまった、の方が正しい表現かもしれない。

「え」

思わず漏れた声に目前の瞼がぱちりと開き、寝起きの余韻に浸る隙さえ見せずにいっぱいの驚きを秘めて帝人を見た。そうしたかと思えば一瞬で自分の手元へ視線を移し、それに手を伸ばそうとしている帝人を認識して、

「――!」

叫ばなかった。
声にならない声とはまさしくこの事を言うのだろうな、とか、妙な事を考えて一秒ごとに変化していく幼馴染の挙動を見守った。本当に眠っていたのか思考が上手く巡っていないらしい。或いはまだ夢だと思っていたいのかもしれない。そう考えてしまう程に、正臣は完全に硬直していた。
けれど時間は止まらない。待ってなどくれない。帝人はそれに倣う如く、行動を開始する。忙しく開閉する口には敢えて触れずに、彼の手に握られた携帯電話を、手ごとこちらへ引き寄せた。力のこもっていない腕は存外簡単に動き、帝人の思うまま、新規メール作成の画面を視界の中央へ移動した。
青が、池袋の街を眺めていた数分前のように、大きく見開かれる。

「…たんじょうび、おめでとう」
「音読!? 羞恥プレイをご所望!?」
「……ええと…」
「あー…もう良い。送る前に寝ちまった俺が悪い」

正臣はここで我を取り戻したのか脱力し、がく、と肩を落とすという大袈裟なリアクションを見せつつ――ボタンの一つに添えていた親指に僅かな力を込める。
間もなく飾り気の無い本文画面は消え去り、代わりに簡素な送信ムービーが始まった。思考が追いつかなくなったのは、今度は帝人の方であった。何が起こったのか理解出来ぬ脳に、『送信中』の三文字がひたすら流し込まれる。送信した方はと言えば相変わらず肩を落とした状態で視線も合わせず、何も言わない。もし帝人がメールに気を取られていなければ、正臣の行動が照れ隠しによるものと分かっただろうが、所詮はもしもの話である。
必然的に、二人は無言になった。一方は何を言えば良いのか分からず、もう一方は敢えて何も言わず、または、言えず。小さな電子機器だけがそれを許さない。だがポケットの携帯が震える前に、帝人は幸運にも迷宮を脱出することが出来たのだった。
質素な着信音が互いの鼓膜を刺激する直前に、彼は笑う。大きな笑いでも、乾いた笑いでもなく、心から漏れたやさしさが空気に落ちてはじけたような。もう何度も祝われているはずなのに、どうしてこんなにも新しい気持ちで染み渡るのだろう。

「ありがとう」

だから、素っ気無い文面を見るのは、まだ少し先にしようか。
調子を狂わされた友人の顔が、数年前のあの頃と確かに一致したのだ。それが、今はうれしくてたまらない。





(20100321 HBD!)
作品名:ダイヤモンドパレード 作家名:佐古