倒錯デパアト
ノックをし、保健室の扉を開ける。
失礼します、と中へ入ると長椅子の上に黄色いユニフォームが見えた。その人物はやはりというか、神童だった。
声をかけると意識していないだろう見下ろされた視線で返される。
壁に軽く頭頂部を押し当てるような角度だからか、緩い前髪に隠され、いつもよりだるい瞳の色が俺を捉えた。
瞬間、胸がぐっと詰まった気がして俺は飲み込むほどの唾液も無いのに、漏れそうになった呼吸と一緒に飲み込んだ。
何だ今の。
理由を考えたせいか、足が止まった。その間に神童に名前を呼ばれ、はっとする。何でもないふうで彼の傍へ近づいた。
「先生は?」
さっきの視線はもう無い。いつも通りだ。俺はほっとしながら、保健室を見渡す。
神童の足の横には救急箱が置かれているが、それを出してくれたであろう先生はここには居ない。
「お帰りになりました」
「帰ったの」
「丁度帰宅する時に俺が来たみたいで…処置だけして下さって、あとは安静にって」
「あ、そう」
「もうほぼ止まってるんで、保険みたいなものなんですけどね」
神童はそう言うと、さっきと同じように頭を壁に凭れさせた。俺はその様を見ながら、組んでいた腕を降ろした。
「あのさ」
「はい」
律儀な後輩はこちらを向こうと顔を動かしたので、そのままでいいと手で制す。
「さっきのあれ、何」
「さっきの、って」
「霧野だよ」
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神童が保健室へ来ることになった理由は、部活中に鼻血を出したせいだ。転んだり、何かにぶつけたわけではない。
ただ部活中、キツそうな咳とくしゃみをしていた。本人は風邪ではないんですと言った。今日は風も強く埃っぽいから、と。
鼻の粘膜が弱い奴は些細なことで傷を作り、血を出すこともある。それは理解るが、問題はそのあとだった。
確か、神童の隣に居た霧野が声を出したのだ。鼻血が出ていると。それで神童がベンチへ戻ろうとした時に、霧野が道を塞いだ。
そのまま、神童へ顔を近づけて数秒。何をしていたのかはいまいち理解らなかった。
俺は霧野と直線状に居たから尚更見えず、ただ、神童側に居た奴らの顔でなんとなく想像はついた。
霧野は神童のこととなると、たまに突拍子もない事をする。だから、大概のことはあぁまたかっていうほぼ呆れにもなるのだけど。
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2
それはほんの一瞬だった。
常ならば髪の毛で隠れて見えない部分が露わになった、それだけである。
南沢の右手が首を掻いたのだ。何でもない仕草、顔を僅かに伏せて手を伸ばしただけの。
だがそれだけでも揺れる明紫の髪の隙間、指の隙間、爪の先に隠れた膚が見えた。
丸く浮かぶのは首の骨だ。つん、と飛び出ている。
いや、それも顔を前に倒しているからなのだけれど。
神童はそこを見つめた。そのまま夢のように口を開く。
「南沢さん」
「ん?」
「ちょっと、後ろ向いて下さい」
そのやり取りだけで、隠れてしまったあの景色を神童は惜しく思う。向かいの一人掛けのチェアに座ろうと思っていたのに、あぁもう。
神童は手にしていたシルバートレーをテーブルの上に置く。
そしてそのまま、南沢が座っている数人掛けのソファに腰かけた。
「え、何で」
「お願いします」
南沢は少し眉を寄せたが、座り位置を直して神童に背を向けた。
「何だよ」
その言葉には答えず、神童はそっと手を首筋へ伸ばした。驚いたかのようにびく、と一度南沢の背が揺れる。
「先程、ここが見えていて」
ここ、と押すのは件の骨。
南沢は後ろの気配を窺っているのか、何も喋らなかった。
「何か可愛らしいなぁと思って」
「よく理由が理解らん」
「俺もよく理解らないんですけど」
本当に困ったような声を出すのが、神童の性質の悪いところだった。それでも不躾にぐりぐりと押されるものだから、南沢はようやっと溜息を吐いた。
「なぁ、もう良い?」
押されるのも力が篭っているわけではないから、別に痛みがあるわけじゃない。
ただそんなことを繰り返されれば気になるし、正直神童の家で飲む紅茶は美味いので、早く飲みたい。
返事が無いのを了承と取り、体制を戻そうとすると腕がするりと回ってきた。
「おわっ」
「すみません、もう少し」
神童の右腕は腹に、左腕はうなじから髪を掻き上げていった。
丁度首との付け根らへんで止まったと思ったら、そのままぐっと押される。
その力に逆らわずに南沢の首が下を向いた。
「おい、神童!」
目線を動かしても真後ろの後輩の顔など見えるわけもなく。続けて怒鳴ろうとした言葉は、近づいてくる何かの気配に気づいて飲み込んだ。
多分それは神童の呼吸で、そうだと理解した時には既に舌が触れていた。
「ばっ」
(サンプル終了)