憧憬
屋上に続く階段を昇りながら、静雄は痛んだ金髪を指先で掻き回した。
踊り場に据えられた窓から差し込んだ光が毛先で跳ねて、金色が弾けるように光る。
反射的に込み上げてきた欠伸を噛み殺しもせず、静雄は目尻に浮いた涙を乱暴に指で拭った。
最上階である4階を越えてしまうと、階段は今までの部分とは明らかに雰囲気を変える。
屋上の扉までの、段数にすればほんの十数段だが、殆ど掃除がなされてない所為で埃とカビの入り混じった匂いが鼻を突き、全体的に暗い印象を人に与えていた。
立ち入り禁止の張り紙がしがみつく様に張り付いた鉄製のドアを開け、漏れ出る光についと目を細める。
錆び付いた敷居を越え、空気を肺一杯に吸い込みながら、静雄はそっと目を閉じた。
強すぎず弱すぎず、柔らかな光が瞼を温めて、それに満足したように息を吐き出す。
抜けるような青空なんてのは望めないにしても、それなりに綺麗な晴天が屋上を覆うように広がっていた。
屋上といえば多くの生徒が寄り付きそうなものだが、見回してもそこに人の姿はなく閑散としている。
とは言え立ち入り禁止という規則を生徒が折り目正しく守っているというわけではなく――不良の溜まり場として生徒の間では有名であるせいだった。
少し視線を動かせば、色とりどりのユニフォームに身を包み校庭を駆け回る運動部員の姿が眼下に見える。
同じ校内でも余りに対称的な光景に目を奪われてから、静雄はふと足元に目をやった。
初めからそれはそこに在ったのだろうが、位置が低すぎたため静雄の視界に入らなかったのであろう。
そこには頭の天辺から爪先まで真っ黒い塊が、身動きもせずに転がっていた。
髪と同じ色の眉を僅かに寄せてから、静雄はそれが自分の見知った人物だと判断する。
顔が髪に半分以上隠されているせいで表情までは分からないが、話し掛けてこないところを見ると寝ているらしかった。
春先とは言えまだ冷たさを孕む風が、彼の黒髪を撫でるように浚(さら)っていく。
ちょうど彼の背中側――風上の方に腰を下ろしてから、静雄は手を伸ばして彼の頬にかかる髪をそっと耳にかけてやった。
癖のないそれは一本一本が絹糸のようで、サラサラと流れるように掌から零れていく。
静雄の指の動きに逆らう事もなく、促されるままそれは彼の耳の後ろに収まる。
そこで静雄は初めて、自分が無意識に息を止めていたのに気が付いた。
改めて吐き出した息も普段とは比べ物にならないくらいか細く、意識してしまえば妙にぎこちない呼吸しか出来なくなる。
寒さのせいではなく指先が震えて、ただ皮膚の上を滑る髪の感触だけを伝えていく。
彼の薄い唇の隙間から規則正しく息が吐かれるのを、静雄は息を詰めて聞いていた。
目を伏せて露になった横顔を眺め、整ったパーツの一つ一つに視線を落としていく。
耳障りの悪い言葉ばかりを選んで吐く口が一端閉じられてしまえば、整った容貌ばかりが目を奪う。
紡ぎ出す言葉を選べば、彼の声は決して――鋭く睨みつける目も、嘲笑うような口元も。
自分以外に向けられる彼の表情は、どれを取っても美しかった。
自分にだけ、と虚栄を満たすには、向けられる彼の表情はどれもあまりに残酷だった。
何かの呪文の様に舌先から滑り出る言葉に怒りを感じ、形振り構わず争っていられたならそれでよかった。それだけでよかった。
普段の彼からは想像もつかない無防備で無垢な姿を晒されてしまっては、視線を剥がせる筈がない。
臨也の顔を見つめながら、まるであら探しでもするように思考を巡らせるが、上手い言い訳は見つからなかった。
怒りという衝動に身を任せてしまえば、その他には目を瞑っていられたが――今は、彼に対する微妙な感情から自分を遠ざけてくれるものは何もない。
剥き出しのまま晒された感情を無視できるほど、自分は強い人間ではないということを静雄は知っていた。
その感情に正面から向き合うのを恐れているのだということも。
掌を、爪が肉に食い込むほど強く握り締めた。
湧き上がるような衝動も身を焼くような怒りも、いつもは抑え付けるのにあんなにも苦労をする感情が、何一つ思い出せないのに絶望する。
彼の白い指先が緩く肩を撫でた。
日向(ひなた)とは言え、三月の陽光は身体を温めるほどの熱を含んではいない。
大した肉付きもない肢体は寒さに晒され、微かに震えているようだった。
身体を丸めて暖を取ろうとする姿は、どこか猫の様にも見えて。
自らの上着に手を掛けそれを掛けてやると、無意識の仕草なのか身体に巻きつけるように引き寄せる。
もぞもぞと動きながら彼は安心しきったような笑みを浮かべて、ただ、その表情に釘付けになった。
切なげに眉を寄せ、吸い込まれるように彼と唇を重ねた後――静雄は逃げるようにその場を後にした。
作品名:憧憬 作家名:蒼氷(そうひ)@ついった