無題
ここから一歩踏み出せば、俺も彼もただの黒い染みとなり得るのだ。
無題
「何でてめえが池袋にいるんだよ」
振り返れば目に入ったのは、光を反射して目に痛いほどの金髪と、それとは対照的な黒い衣服。
そこに立っていたのは凶暴という言葉をそのまま具現化したような男だった。
すなわち彼の表情は牙を剥き出した野獣そのものだったし、今にも飛び掛らんばかりの気迫が空気を介してビリビリと此方に伝わってきていた。
しかし、ビルの縁に腰掛けてぶらぶらと足を宙に投げ出した俺の姿を見て、彼の覇気は大いに殺がれたらしい。
腑抜けたものを見るような目で俺を一瞥(といっても彼の目は黒いレンズで隠されていて俺からは見えないのだが)してから、
長い手足を駆使して軽がると柵を飛び越えると、怪訝そうな表情をして俺と同じ方向を眺め始めた。
金色の髪が月の光に透けて、薄く光を放っている。何もかもを呑み込んでいく深い闇の中で、それだけが眩いほどの輪郭を保っていた。
彼の気に入りのサングラスが外され、胸元にかけられる。真っ直ぐ過ぎる視線が、矢の様に俺を射抜いた。
「なに見てんだ」
「何も」
冷たいビル風が足元を浚(さら)っていく。風がズボンの裾から入り込み、冷たい手で肌を撫でられるような感覚が這い上がってきた。
何がしたいのか全く理解できないお前頭大丈夫かなんなら良い病院紹介してやるもちろん紹介料はきっちり払って頂くが。
「今君が考えた事ってこんな感じだと思うんだけど。どう、当たった?」
「・・・」
返事の代わりに、返ってきたのは呆れたような溜息と不快な煙草の臭いだけだった。
煙草の臭いは嫌いだ。どこにでも染み付くし、何より彼のことを忘れられない自分を表しているようで無性に腹が立つ。
風雨によって削られたコンクリートに手を掛け、立ち上がった。
風が上着の袖を膨らませて、それだけでは飽き足らず俺までもビルの下に吸い込もうとする。
左は死、右は生。明快すぎるほどの分類と、その境界線が俺の目の前を走っていた。
両手を軽く広げてバランスをとりながら、俺は生と死の境目を弄ぶようになぞっていく。
付き合いきれないといった表情で立ち上がった彼を肩越しに振り返ってから、俺は重心を左に傾けた。
反射的にバランスを取ろうとする身体の作用を跳ね除けて、ゆっくりと重力に従い始めた俺の身体は、しかしすぐに反動と共に宙で止まった。
掴まれた腕が熱い。視線を上にずらすと、らしくもなく焦ったような表情を浮かべる彼の顔があった。
「バカ野郎」
「優しいね、静ちゃん」
「目の前で自殺されんのが胸糞悪いだけだ」
「ふーん」
「お前を殺すのは俺だからな。お前自身でなく」
「やっぱり優しいよ、静ちゃん」
「黙っとけ」
見下ろした先には、例の黒い染みがしがみつく様にして地面に張り付いている。
まるで最後の痕跡を、意地になって消されまいとしているかのように。
ここから飛び降りた時点で、そんな資格も自らは持ち合わせていないというのに。
戻ったら適当に誰かを雇って、ここを綺麗にさせよう。
ぐ、と引き寄せられて無事コンクリートの上に生還した俺は、そのまま彼の腕の中へすっぽりと収められる。
冷え切った身体に彼の高すぎるくらいの体温が心地よく、俺はそのまま目を閉じた。
「やっぱ優しいよ、静ちゃん」
「うるせえ」
「じゃあ黙らせて」
光と闇、生と死。二つのコントラストが綺麗に重なって、揺れた。
作品名:無題 作家名:蒼氷(そうひ)@ついった