真夜中のホットミルク
夜中にふと目が醒めた。いつも通り目覚めは最悪だった。
眠りに落ちる直前まで身体の上に得体の知れない重みがあって、夢の中では髪の長い女の霊に追いかけられ、汗を掻きながら目を醒ますと指先一つ動かせないほどの金縛りに包まれていた。慣れてしまったといえば慣れてしまったのだが、それでも不快感は拭えない。じっとりと額に浮かんだ汗を乱雑に拭いながら、泉水は寝室を後にした。ドアを閉める音が深夜の空気の中に大きく響いた。普段ならば気にならないような廊下の軋みがやけに耳につく。静かに歩くことを努めながら泉水はリビングへ向かった。
廊下の冷たい感触が素足に心地よかった。泉水は寝起きということを差し置いても、今自分の身体が熱くなっていることを自覚していた。それは不快な体験をしたからか、或いは──そこまで考えてリビングの電気を点けた。じじじ、という低い音を立てたあと白い光がリビングを照らした。暗闇に慣れた瞳にその光は強すぎて、一瞬泉水の瞳を光の矢が貫いた。
「………」
何に対するものか、何を意味するのか、それはよくわからなかったけれど、何故か嘆息が泉水の口唇を突いて出た。
そのままキッチンへ歩いていき、冷蔵庫の中にある牛乳を猫のイラストが描かれたマグ(泉水専用のマグだ。ちなみに同じようにウサギのイラストが描かれたマグは嵐士専用である)になみなみと入れ、それを電子レンジの中に入れた。ぴ、ぴ、とレンジを操作し最後にスタートボタンを押した。レンジの中にあるマグがゆっくりと動き出す。猫の顔が現れたり消えたりしていく様子を、じっと見つめた。
数十秒後、ぴぴぴと音を立てて動きを止めたレンジの中にあるマグを取り出し、スプーンにいっぱい乗せたはちみつをホットミルクの中に溶かし入れた。温めのミルクにはちみつがゆっくりと落ちていくのを見届けてからようやく口付ける。柔らかな甘さが泉水の口の中に広がった。両手でマグを持ってソファに深く腰掛けながら安堵のため息を吐く。
夜中に目が醒めてしまうと、こうやってホットミルクを飲むまで泉水の心が落ち着くことはない。このプロセスが習慣付いたのはいつからだっただろう、と思いながらもう一口含む。すると、嚥下する前に控えめにリビングのドアが開く音が泉水の耳朶を舐めた。
「やっぱり、泉水、起きてたんだ」
「……嵐士」
音のした方に目を向けるとピンク色のパジャマに身を包んだ嵐士が眠たい目を擦りながら立っていた。眩しさに一瞬細められた瞳は泉水を視界に入れた途端、今度は柔らかな笑みの所為で再度細められた。
よいしょ、と嵐士が泉水の隣に腰を下ろす。もこもこのうさぎのルームシューズが泉水の目に入った。泉水の視線がそこに下ろされたことに気付いた嵐士はつま先を揺らしながら「素足だと冷えるよ」と素足の泉水を嗜めるように呟いた。
「泉水、また怖い夢見たの」
「それプラス、金縛りとか」
「れーちゃんにもっかい除霊頼んでみようか」
「三日くらいしか効かねえもん」
「でも三日は安心して眠れるんでしょ。……こんなに顔色悪くして、体調崩すよ」
言いながら嵐士の手が泉水の頬に触れる。泉水は自分のそれよりも大きい嵐士の手のひらを横目で見つめた。
いくら二卵性といえど双子でここまで変わるものなのだろうか、と思う。恵まれた体躯、頭脳、友人関係など──嵐士は泉水が持っていない、もっと言うならば泉水が憧れているものを全て持っている。嵐士が持ち得て泉水が手に入れられないものの違いは、この手の大きさではないだろうかとさえ思った。泉水より大きい手のひらだから、泉水より多くのものを手に入れられるのではないだろうか。そう考えながら泉水は自分が馬鹿げた考えをしているものだと内心で呆れてしまった。
「あのさ、泉水」
嵐士の瞳がまっすぐに泉水の瞳を見つめていた。嵐士の瞳の中に映る自分を視認出来るほど近い二人の距離に少しだけたじろぎながらも泉水は距離を離すことをしなかった。
「一人で寝るの、怖くない?」
「……べつに」
「俺は、そういう経験したことないからわかんないけど。でもそんな怖い体験してから一人で寝るの、絶対怖いよ」
「………」
「だからさ、」
頬に添えられていた手がふいに離れる。指先が離れた瞬間、どうしてかそこが一気に冷えたような気がした。そのまま嵐士の手は温いマグを持つ泉水の両手を、泉水の手ごとマグを包むようにきゅっと握った。我知らず高鳴った鼓動に瞠目するより早く嵐士の声が泉水の身体に降りかかった。
「そういうときだけでも、頼ってよ。一緒に寝よう」
ね、と泉水の意向を確かめるように小さく首を傾げながら嵐士が問うて来る。普段ならば一蹴するはずの言葉なのに、いつものような異常な兄弟愛の要素とか、身の毛がよだつような不快感はなかった。少なからず不安がっていた所為か、いつもより静かなリビングの所為か、マグから立ち上る甘いミルクの匂いの所為か、それともたった二人だけでこの空間にいる所為なのか、それはとうとう分からなかったが、唯一泉水に理解できたことは自分がそうしようと思うよりも早く首を縦に振っていたという事実だけだった。そして次の瞬間、嵐士が安心したように、そのうえひどく嬉しそうに笑った事実も。
「じゃ、今日は一緒に寝よう。俺、先に部屋行って泉水の枕持っていっておくね」
泉水が制止するより早く嵐士の手が離れていく。立ち上がった嵐士を見上げようと首を上げても蛍光灯の光を背負った所為で嵐士の顔が黒く煤けて見えた。けれど薄い笑みを浮かべているだろうことだけは容易に想像できた。
どうしたの。そんな泉水に向けて嵐士が問うて来る。何でもない。呟いた声は思った以上にぶっきらぼうに響いた。ぽんぽんと金色の頭を撫でてから嵐士はリビングを後にした。
あとに残されたのは泉水と、すっかり冷えたホットミルクと、そして嵐士がそこに座っていた事実を表すソファの窪みだけだった。そっとそこに指を這わせる。ホットミルクよりもあたたかな体温が泉水の心をそっと温めた。そのままマグを呷る。ミルクを嚥下し、キッチンにマグを戻してから、泉水もリビングを出た。
向かう先は自分の部屋ではない。
今夜は久しぶりにぐっすり眠れそうだと思った。
作品名:真夜中のホットミルク 作家名:ラボ@ゆっくりのんびり