英雄は死んだ
やかんがしゅうしゅうと音を立てている。キッチンの窓の桟に置かれた観葉植物の葉が少し垂れて、水分不足を伝えているのを気に留めながら、ナルトはかちりとコンロを切った。気温は低くも高くもないが、薄着ではさすがに寒い秋の初め、キッチンの窓は結露に曇っている。水滴がかすませる窓の向こう側の空が高く青い。(ああ、この季節がまたやってきた)
埃で汚れた換気扇の壊れかけた機動音が静かな部屋に小さな振動を与え、それがまるで血流にでも似ているような気がするからいけなかった。一人きりのこの家はあまり好きではない、とナルトは思っている。無理やり作りだされた生活感のよそよそしさが気持ち悪いのだ。ほおりだされたくだらない巻物も、枯れかけた観葉植物も、何もかも、ここに本当はなく、本当であるはずの自分自身が偽物のようで息苦しい。やかんの中にほうじ茶のパックを入れ、ナルトはゆっくりと息を吸う。一年365ある日々の中でナルトは一番この日が嫌いだった。
朝、この日は普段よりも1、2時間早く目が覚める。白んだ空をにらみながら、手早く例年通りに支度を済ませて、男を起こす。寝ぼけた眼差しでこちらをみる男を冷たく一瞥しながら家を出る主だけ簡潔に伝え準備を急がせた。
ナルトが庭に出ると静かな朝には似合わないけたたましい声をあげながら1羽の烏が下りてくる。これはナルトの烏で、諜報と監視と二重の役割を持てる優秀な物ではあったけれど、どうにもうるさいのが玉にきずであった。まだ明けきらない空気は冷たく、バタバタと黒い羽根を羽ばたかせるからす以外には野鳥の低い声が滑るように響いている。嫌なものだとナルトは考える。白々しく澄み渡る空も、冬を待ち望むような冷えた空気も何もかも。カラスを腕の上で落ちつかせていると、ようやく準備の整ったらしい男が、寝ぼけた表情を張り付けて縁側を下りた。
「おせぇ」
「…そっちが早すぎるんだろ。」
ナルトは小さく舌打ちをして欠伸を噛み殺す男に烏を渡し、行くぞと短く声をかけて庭を出た。
最近は男と全くと言っていいほど顔を合わせなくなっていたから、こうして出歩くのはひどく久しぶりなような気がして、変に居心地が悪い。避けていた、と言うのは確かにある。正直なところ、男と二人きりでいることに限界を感じていた。ナルトのアイデンティティをやさしく破壊する、未知なる敵である男に絶望に似た恐怖を何時からか、あるいは最初から、抱くようになっていたからだろう。(なあ、あんたは一体何を考えている?)ついぞ口から出ることのなかった疑問をナルトは胸の中で吐き出してみる。見えるものならば視てみたかった。男のナルトに対する行為の根底にあるものを知りたかった。その先にあるのがただの打算であったならとナルトは思う。そうあれば、見下すように男を簡単に憎むことができるからだ。
火影の執務室まで男を連れていき、ナルトは一度きり瞼を伏せて真正面から男を見た。今日1日ここで過ごせと短く簡潔に告げるためだ。理由はしごくシンプルなもので、今日という日がそうさせているのだから仕方がない。本来ならあの家に縛り付けておくべきなのだろうが、火影立っての言葉もあり、男は1日火影のもとにて解読の仕事を続けることになっていた。馬鹿な真似をするなと言いながら、きっとこの男はしないだろうと考えている。馬鹿なのはどっちなのだろうとそれからナルトは考えた。くっきりとした黒曜石の底のない色を眺めながら、移りこんだ自分の小ささに閉目したくなる。里に踊らされている自分だろうか、未来を願えない心だろうか、きっと愚かなのは自分だとナルトは思う。選択を後悔したことはないが、きっと。特にこの日はよくそう思う。
だんだん鈍くなる思考回路をそのままにしてナルトは埃っぽいベットに腰を下ろした。男につけたカラスはナルトが作ったものだから、それが存在する限りナルトには男のいる場所が手に取るようにわかった。監視としてそばにいることも可能であったけれど、それは火影が許さない。去年あんなことがあったから火影は少し神経質になっているようで、ナルトはこの家から出ることすら許されていない。馬鹿馬鹿しいとは思う。そうまでして守る価値を自分に見出せないから、火影の焦燥なんてものもやっぱり理解できずにいる。たかだか1年しかたっていない、というのは奇妙な感覚だった。2年前はそんなこと考えずに無知な感情のまま回りを睨むことしか知らなかった。ころりとベットの上に転がって、仰向けになったまま窓の向こうの空をみる。澄んでいる。いやがらせのように。雨でも降れば少しは気が晴れたと馬鹿げたことを考えながら胸の上で手を組んだ。まるで死んだ人間のようだ、と自分の体制を客観的に想像しながら思う。けれど、きっと忍はこんな綺麗に死ぬことはできない。花に埋もれて、まるで眠るようになんてそんな忍はひどく幸運な奴だけだ。自分はきっとチリも残らないだろう、とナルトは思った。きっとあまたの赤い手が安らかに死ぬことを許さない。できれば骨も残さないでほしいと思った。跡形もなく、掻き消すようにして、できればそうやって消してくれたらいい。胸の内にあいた穴が悲鳴を上げるように空虚にひずんでいる。これはあの男が開けた穴だった。ずっと気づかずふたをしていた穴を男が遠慮なくぶち抜いた。ああ、馬鹿だなと思う。そんなことを考えるだけ無駄だと知りながら、ナルトは目を閉じる。(あんたは一体何を考えている?)(俺をいったいどうするつもりなんだ?)結局尋ねることのない疑問を胸の中で押しつぶす。答えは最初からいらなかった。答えをもらってしまったら、きっともう、男を憎むことができなくなると知っていたからだった。