おはよう
開いた視界に最初に映ったのは、光を浴びながらひらひらと揺れるカーテンだ。どうやら、前日窓を締めずに寝てしまったようだ。理由は、どうしてだったか。確か何か理由があってそうしていたはずなのだが。それにしても肌寒い。もそりと体を動かしてみると、どうにも具合がおかしい事に気づいた。ところどころ関節が変に痛む。靄がかった頭に疑問符を浮かばせながら、鈍い仕草で胸元に手を滑らせる。素肌の感触だった。どうやら上半身は服を着ていないようだ。まあ上半身裸で寝るぐらいは間々あることだから、特におかしくもないだろう。
起き抜けで寝ぼけた頭で考えながら視線をさまよわせる。真上から、ゆっくりと左へと向けると、鼻先を柔らかな茶色い髪が擽った。それから伏せられた瞳が見える。誰だと考えるまでもない、ファルコの所属する部隊の隊長であり、友人であり、驚くべき事に恋人でもあるフォックスだ。
「――――!!」
フォックスの姿を認識した途端に、寝ぼけていた頭が覚醒した。待ち構えていたかのように、瞬時に昨晩の出来事が刻銘にフラッシュバックされる。出来る事ならば一生聞きたくなかった種類の自分の声や、切れ切れの息の中で己の名を呼ぶ相手の声、月明かりにぼんやりと見える相手の体躯、汗の香り。記憶に反応してか、子犬がグルーミングをするように執拗に舐められた手がじくりと疼く。
そこまで半ば強制的に記憶を辿ってから、羞恥心に耐え切れなくなったファルコは、力いっぱい瞳を閉じた。更にその上を両の掌で覆う。ほおに触れている部分がやけに熱く感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。そういえば、朝起きたときから喉が妙に痛む。風邪かと思っていたが体調自体はすこぶる良い。となると、やはり昨晩の酷使が原因に違いない。そのうえ視界を完璧に覆ったせいか、ずっと無視し続けていた臀部の痛みと違和感がやけに際立って感じられる。
「……くそっ!」
昨晩の事をダイレクトに匂わせるその感覚に、堪らず小さな悪態をはき捨てると、うっすらと瞳を開き横に眠っている男へと恨めしげに目を向けた。ファルコの気持ちなど知らないというように、フォックスの健やかな寝息は乱れる事ない。実に幸せそうな顔で眠っている。
暫くの間フォックスの顔を睨みつけていたファルコだが、不意に溜息を吐いて僅かに目を伏せた。自分の苛立ちが羞恥からくるもので、ただの八つ当たりでしかないことぐらい、ファルコも承知の上なのだ。ただ、理性ではそう解っていても、感情のほうが膨大な羞恥心を処理しきれないのである。
ファルコはやり場のない思いを表すように乱雑な仕草で青味がかった髪を掻くと、再び視線を真上へと上げた。先程と変わらずにそよ風に吹かれて穏やかに揺れるカーテンが見える。そうだ、あの窓は、情事の匂いを追い払うために、寒いと嫌がるフォックスをどやし立てて自分が開けたのだ。閉めてから寝ようと思っていたのだが、どうやらお互い疲れに負けて寝てしまったらしい。
とりあえず、朝と言えどもやはり窓を開けているのはどうにも肌寒い。閉めておくかと、ファルコは上半身を起こして窓へと手を伸ばした。
「っ!?」
窓枠へと触れた瞬間に、するりと何かが素肌である腰元へと巻きついた。さり気ない仕草で腹筋の辺りを撫でられる。それが何か、視線を下げて確かめるまでもない。
「……フォックス、その手をどけろ」
「ふあ……おはようファルコ」
意識して低めた声で告げるが、欠伸交じりに返された言葉は何処かずれている。離すどころか額をくっつけてくるフォックスに、ファルコは不機嫌そうに眉を寄せた。うっすらと耳が朱色に染まっている事が、本気で嫌がっているわけではなく、ただ恥かしいだけなのだと物語っている。
「おはようじゃねえよ。離せ」
「んー……」
軽く首を巡らせて不機嫌そうに見やる。だが、どうにもフォックスの返答は要領を得ない。ファルコの腰に額をぐりぐりとくっつけながらも、どこかぼんやりしている様子からするに、まだ頭が働いていないだけなのだろう。フォックスは夜には強いのだが、その代わりに朝には滅法弱い。時計を見たわけではないが、外を見る限りまだ7時過ぎといったところだ。フォックスが起きる時間としてはまだ早過ぎる。普段ならば9時ごろまでは布団の中の住人なのだ。勿論、任務がある時はその限りではないが。
ファルコは小さく息を吐くと、取り合えず窓を閉めた。パタンという小さな音を境に、カーテンが風を失って動きを止める。それから振り返ってフォックスへと向き直ると、思い切りフォックスの髪を掻き混ぜた。
「ほら、起きろ馬鹿狐。いつまでもひっついてんじゃねえ」
「もう少し……お前、暖かいな」
フォックスの柔らかな髪を、少し荒っぽい手つきで撫ぜる。ようやく目が覚めてきたのか、フォックスから返答らしい返答がきた。ファルコへぎゅうぎゅうと抱きつく姿は、寝起き特有の舌足らずな口調も手伝ってまるで子供のようだ。フォックスが起きたら昨晩の文句を言ってやろうと思っていたファルコだが、フォックスの様子に毒気を抜かれてしまった。
「そりゃ、俺も寝起きなんだから当たり前だろ」
「んー…でも、お前の体温って、寝起きに限らず凄いちょうど良いんだよ。ずっと抱き締めたくなる」
「なッ…に、朝から馬鹿なこといってんだ!この色ボケ狐!」
ファルコを見上げながら幸せそうにへらりと微笑むフォックスへ、ファルコは顔を真っ赤にして拳を握り締めた。大声で叫ぶと共に、先程まで撫でていた頭へと硬く握り締めた拳を落とす。
「いっ……!何も殴ることないじゃないか!俺は思ったことを言っただけだろ!」
「るせえ!朝っぱらから寝ぼけた事ぬかすからだ!おら、どけ!」
腰に巻きつく腕を無理やり引き剥がすと、ファルコはフォックスの体を乗り越えて寝台の外へと出た。ブーツを履き、床に放り投げられていた上着を歩きざまに拾いながら、扉へと進んでいく。
「どこ行くんだ?」
「朝食、食堂に取りに行くんだよ」
憮然とした口調で答えながら、ファルコが上着に袖を通す。フォックスは寝台に寝そべらせていた体を起こした。
「俺も行くよ」
「飯ぐらい一人で十分だ。お前は寝てろ。眠いんだろ」
フォックスを一瞥してからファルコはぶっきらぼうに言い放ち、そのまま返事を待たずに部屋を出て行った。
「……ほんと、素直じゃないよなあ」
まあ、そこがかわいいんだけど。
フォックスは唇の端を吊り上げてファルコが出て行った扉を眺めながら、小さく口の中で呟いた。それからぐぐーっと大きく伸びをして、進められたとおり枕へと顔をうずめる。ファルコのものともフォックスのものともつかない、おそらくは二人の匂いが混ぜ合わさったものが鼻腔へと届いた。その事にどうしようもない幸福感を覚えながら、温かい朝食が来るまでの間だけと、フォックスはそっと瞳を閉じた。