なりゆき
そんなこと言われなくてもわかっている。
わかっていても、考えるより先に身体が動いてる。
なにも考えずに廊下を進んでいた。
不浄王討伐から帰ってきて、休憩もせず、他のことは思わず、ただひたすらに、蝮のいる部屋へと向かっていた。
柔造は戸を開けようとした。
だが、そのまえに、部屋の中から戸が開けられた。
開けたのは、蝮。
蝮が眼のまえにいる。
虎屋の浴衣を着ている。
顔には包帯が巻かれている。包帯で右眼が隠されている。
その蝮の身体がふらっと揺らいだ。
傷ついた、傷つけられた身体が倒れそうになる。
柔造は驚き、支えようと手を差しだした。
「なんしてん、寝とけ!」
直後、蝮が柔造の仏教系祓魔師の制服の胸元を強くつかんだ。
「……申!!」
傷ついていないほうの眼、左眼は大きく開かれ、食い入るように柔造の顔を見ている。
その身体は小刻みに震えている。
なにかを恐れているように見える。
不安なのだろう。
どうなったのか知りたい。
しかし、悪い結果であるのがこわい。
そんなふうに見えた。
だから。
「まず、いい知らせは、不浄は倒した。和尚もみんな無事や」
柔造は蝮を安心させたくて、安心するようなことを伝えた。
さらに付け加える。
「せやし……、そんな顔すな……」
その途端、蝮の張りつめていた表情が崩れた。
左眼から涙がこぼれ落ちる。
「……わああああ……!!」
声をあげ、子供のように泣きじゃくる。
柔造の着ているものをつかんだまま、崩れ落ち、敷居に膝をつく。
その姿を柔造はぼうぜんと見る。
だが、すぐに我に返った。
腕を伸ばす。
蝮の背中のほうにやる。
泣き続けている蝮の顔を隠すように、自分のほうに引き寄せる。
腕の中にあるのは、ほっそりとした身体。
この身体にこれまで重いものを背負って生きてきたのだ。
八年まえ、祓魔塾に入塾してしばらくした頃に、藤堂から不浄王の左目が正十字学園の最深部に封印されていると聞かされ、疑問を持ち、メフィストと不浄王と和尚について調べ尽くしたという。
藤堂にだまされているとは知らず、懸命に動いた。
明蛇を救うため、だ。
それを一心に思い、不浄王の右眼を身体に入れまでして、重症におちいった。
自分のためではない。
それどころか、我が身のことなど捨ててしまっている。
優しくて、しかし不器用だから素直にそれをあらわすことができなくて、そして、責任感が強い。
柔造のよく知っている蝮の本質だ。
昔のことをいろいろと思い出した。
本当に、変わらない。
柔造は強すぎない程度に蝮の身体を抱きしめた。
心がほっとゆるみ、胸が温かくなる。
頬に自然と笑みが浮かんだ。
蝮を抱いたまま部屋の中へと入り、それから部屋の障子を閉めた。
他のだれかに見られたくない。
見せたくない。
だれの眼も届かなくなってから、柔造は優しく言う。
「もう、大丈夫やからな」
蝮の背中をそっとなでた。
すると、蝮がほんの少し身体を退いた。
それを感じて、柔造は蝮の背中のほうにやっていた手をおろし、わずかに身体を退いて、蝮の顔を見た。
眼が合った。
蝮は柔造をじっと見ている。
その唇が開かれる。
「ありが、とう」
喉からではなく心の奥底からしぼり出したように、深い想いのこもった声で言った。
蝮の左眼から、また、涙がこぼれた。
少し紅潮している頬を透明の涙がつたう。
その顔を、柔造は凝視する。
胸の中で心臓が強く打った。
感情が湧きあがる。
その感情は熱く、激しく、波のように大きく揺れ、打ち寄せてくる。
全身を支配される。
強い光をカッと浴びたように頭の中が真っ白になる。
ちゃんと考えながら行動を起こしなさい。ふと、藤堂の声が耳によみがえってきた。
わかっている。そんなこと。
でも。
胸の中にある熱い想い。
それに、突き動かされる。
おろしていた手を、ふたたび、あげた。
蝮の頬に触れる。
触れられて、蝮は動かずにいる。
柔造の中で感情が大きく揺れる。
愛しい。
愛しくて、愛しくて、たまらない。
柔造は顔を蝮のほうに近づけた。
それでも蝮は動かない。身体を退こうとはしなかった。
唇を重ねる。
少し蝮が震えた。
でも、逃げない。
だから、柔造はやめずにいる。
最初は受け止めるだけだった蝮が、やがて、おずおずとした感じだが、応えるように動きだした。
それが嬉しくて、いっそう愛しくて、柔造は蝮に深くくちづける。
しばらくして、離れた。
けれども、すぐそばにいる。
至近距離から、蝮の顔を見る。
その視線に気づいたように、蝮は柔造を見た。
そして、表情をゆるめた。
笑った。
たぶん、笑ってみせただけだ。柔造が心配していることを察して、精一杯、笑ってみせたのだろう。
その笑顔が柔造の胸にしみた。
「……蝮」
「うん」
「蝮」
「なんやの」
「好きや」
かすれた声で告げた。
直後、蝮は無表情でいたが、少しして、ふっと、その表情が変わった。
眼が細められ、口角があがった。
笑顔だ。
明るくて、輝くような笑顔だ。
今度は、きっと、本物の笑顔だろう。
嬉しそうに笑っている。
その笑顔が、さっきよりも、胸に、きた。