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へなちょこマ王とじょおうさま プロローグ

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西暦19××年4月某日、埼玉県大宮市の郊外でひっそりと、地域住民に親しまれている診療所で大きな産声が響き渡った。
分娩台が置かれた色があまりない、灰色の室内、生命を司る機械やらんらんと輝く照明に照らされて鈍い光を放つ道具に囲まれながら産婆を務めた妙齢の女医も、その助手として母親となった女性の傍らに居続けた看護婦も、皆が笑顔で新しい命を見守る優しい空間が出来上がっていた。
こういった場でなければなかなかに恥ずかしい格好で、生命を生み出す大変な仕事をこなし、息を荒げていた母が胸に預けられた我が子を見る。優しく、慈愛のこもったその瞳は、胸に抱くあたたかい命を心の底から慈しみ、愛しみを込めて我が子を映した。

いつまでも止まっているわけにもいかず、一仕事終えたそれぞれが移動しようと準備を始める。
 先月、まだ命が胎内に宿っていた時、「絶対に付き添ってこの子の誕生を見守るんだ!」そう意気込んでいた子の父親は、急な仕事が入ったためについにその場に居合わせることは叶わなかった。この部屋に入る直前、かかって来た電話でそれを告げた彼の人は、とても悔しそうに唸っていた。子供のような夫に、笑みを漏らして力が抜けてしまったのも、無事にこの子を産み落とした今となっては微笑ましい思い出だ。
 着物のような形をした薄手の病院服、その前を開かれ、胸に置かれた我が子が小さな口で懸命に、唯一の食糧を接種する姿を見守りながら、ゆったりとした心持で、そんなことを考える。
 ああ、早くこの子をあの人に逢わせてあげたい。そして、結婚十年目の節目の年に授けられた念願の我が子を抱いて男泣きするだろうあの人に逢いたい。
「もうすぐ、お父さんが来るからね。」
 食事中で他のことなど気にする暇もないだろう、もとより理解できないだろう赤子に向かって、そう呟いた。
 彼女はこの時、確かに幸せだった。

「大変です!」
 彼女の幸せを壊すのは、こんな簡単な、短い、けれど秘めた意味はとてつもなく大きい、移動させられる前、準備がようやく整い、生まれおちたばかりの赤子も食事が終わり、息を吐いて眠りに着こうとしていたところのことだった。
 ただ事ではない看護婦の慌てた様子に、その場の空気が張り詰める。
「何事です?新生児がいる場に、しかも寝ている場に怒鳴りこんでくるなんて!」
 正気の沙汰ではない。
 そう言いたげな眉根の皺をそのままに、この場で最高位であろう女医が駆けこんできた看護婦を叱り、詳細を尋ねる。
 慈愛に満ちたまなざしを我が子に向けていた彼女は、途端に体が冷たくなるような、嫌な予感が体を冷気となって走るのを感じていた。胸に抱いた熱いくらいのぬくもりを抱きしめる。
 息を整えて、目の前の幸せに亀裂を生んだ白衣の天使は口を開く。
「今、ご実家から電話があって、旦那さんが、旦那さんが電車の横転事故に巻き込まれて…さっき亡くなったって!」
 ああ…、幸せとはこうも簡単にこの手からすり抜けて行くものなのかしら…?
 彼女は幸せを感じた同じ日、絶望も味わうこととなった。何も知らない、生まれたばかりの赤子が、まだ開いていない瞼を震わせ、体を居心地のいい場所を探すように一、二度身じろぎをした。
 憐れみと哀愁が漂う室内に、赤子のむずがる小さな声が虚しく響いた。