【暦サンプル】秘色
プロローグ
暦高校の数学準備室には、校庭に面した小さな窓が一つだけあった。整理はされているけれど、どこか埃っぽい狭いその空間には、半分開いた窓から、初夏の匂いを含む南風がゆるやかに流れ込んでいた。
遠くから聞こえる運動部の掛け声と、吹奏楽部の演奏。何の変哲もない、この場所の日常の音だ。けれど、あのときの極月には、耳が捉えたその音を認識することができずにいた。
何も変わらないはず風景の中で、まるで時の流れから切り取られたかのように、あの部屋は日常からひどくかけ離れていた。
「――――これは先生と私だけの秘密だから、誰にも言っては駄目だよ」
非日常は、凛とした少女の姿をして、窓の外の青空を背にしたまま、にっこりとあどけなく微笑んでいた。
紺色のセーラー襟には、眩しい白のラインが一本、染め抜かれていた。胸元でゆるく結われた白いスカーフが、ふわりと風に揺れる。とうに見慣れたはずの夏服が、なぜか妙にくっきりと視覚に焼き付くように感じた。
「俺がそんな口の軽い男に見えるのか?」
不満げに鼻を鳴らせば、彼女は少しだけ考えるように小首を傾げた。
「そういう訳じゃないけど………、先生はやさしいから」
「どういう意味だ、そりゃ」
怪訝な表情で問い返すと、彼女は問いに答える代わりに、ふふ、と軽やかに微笑んだ。一年中太陽の下で走り回っているというのに、彼女の黒髪は陽に焼けた様子もなく、ハッとするほど艶やかだった。しかし、そのうつくしい黒髪が肩より長く伸ばされたことは、極月の記憶の限りでは、一度もない。以前、何かの折に髪を伸ばしたりはしないのかと訊ねたら、洗うのが面倒だから、とばっさり切り捨てられた覚えがある。
彼女は幼いころから、自分の意思をはっきりと持った子どもだった。物分かりがよく、行動力もあり、頑固なところがあるのは確かだが、筋の通らないことで意固地になるようなこともない。彼女は実に手のかからない模範的な優等生だった。
極月自身も、どこかでそんな風に思っていたのだ。そして、その枠の中で安易に彼女を捉えようとしていた。そのときの自分には自覚などなかったけれど、今になってみれば、そういうことだったのだろうと何となくわかる気がした。