恋でした
だいぶん柔らかくなった夜の風を縁側であびながら、本田菊は隣で先ごろからなにやら口をもぐもぐしているアーサー・カークランドを凝視していた。口をあけたり、とじたり、なにやら舌を口内で動かしたり。困ったように太い眉毛が眉間によっている。ふむ、と本田は考える。
「・・・お茶でも飲みますか?」
声をかけると、アーサーはなんとなく情けない顔のまま本田の方を向いた。そうしてしばらくそのまま停止したのちに、ゆっくり顔を縦にふる。本田はにこりと笑って立ち上がった。
庭の梅が見頃ですと、本田がアーサーに電話口で告げたのはほんの一週間ほど前のことだった。なんともない仕事上での電話であったとおもう。要件さえ告げられればメールでもなんでもよかったのだけど、本田が電話という手段を選んだのは彼なりのデレである。それにアーサーが気付くかはまた別なのだけど、とりあえず数千年を生きてきた本田といえど乙女的な心はまだまだ現役なのだ。
梅か、と呟いたアーサーはしばらく沈黙した後に問いた。来週末は暇か?
そうして彼は9580キロを越えて今現在ここに居る。本田は台所で急須にお湯を注ぎながら考える。海を越え時差を越え、えんやこらとやってきた異国人について。まさか本当に来るとは思わなかったので、週末の予定を訊ねられた時本田は、嬉しいやらびっくりやら、それでも嬉しいやらでいっぱいだったのだけれど、冷静になれば彼だってそれなりに忙しい身の上である。ちょっと梅見てくるというノリでここまで簡単に来れる立場ではないのだ。それは自分が同様の立場であるからこその理解である。
きっとこれだけのために彼は仕事を前倒しして上司に無理を言って来たんだろう。ちょっと本田はきゅんっとする。ジジイだってきゅんくらいはするのである。
いい塩梅になった煎茶を湯のみに2人分注ぐ。なんていうかこういった日常の些細な事がいつもの2倍になるだけでどうしてこんなに幸せな気分になれるんでしょうか・・・本田は穏やかなきもちになる。こういったことを世間一般では恋と呼ぶのだけど当人にはその自覚があんまりない。だから至る所でアーサーがやきもきするのだけど、まあそれもあんまり自覚がない。
縁側に戻ると、やっぱりアーサーは口をもぐもぐしていた。本田はそっと煎茶を置く。
「さよりの骨でしょう?喉の奥につかえているの」
笑って問えば、アーサーはみどりの目をぱちぱちさせてから照れくさそうに頷いた。本日の夕飯はさよりの天ぷらと春菊のお浸しと金平牛蒡、そうして味噌汁に白米である。
アーサーという男は、どうして数百年という時を生きてきてまったく上達しないのかがまさにミステリアスというほど料理に関しては壊滅的なくせして、味については妙に達者なところがある。まあ要はめんどうくさい舌の持ち主なのだけど、そのため本田はけっこう彼をもてなすときは料理に対して気をつかう。ちなみに一番気を使わないのはハンバーガーが主食のどっかのメタボである。あのやろうは白米と塩鮭のおともにシェイクがいいとぬかしやがった。その瞬間から本田にとって彼は敵である。食習慣的に意味で。
まあ料理音痴の兄を持てば味音痴の弟ができるのも道理かと本田は納得したものだが。しかし兄は味音痴ではない。ああもうほんとめんどうくさい。
そのめんどくさいアーサーは、ぐっと煎茶を飲む。そのとき見えた白い喉がなんとも扇情的で本田はうっかり見とれてしまう。いやいやいやまだ夜も更けていないときからわたしはなにを・・・!問題はそこではなく、男の茶を飲む姿ごときにそんなことを思っている自分であることに本田は気付かない。気を取り直そう。
「どうです?とれました?」
「ん、んー?」
どうやらまだ気持ちが悪いらしい。アーサーは口をもぐもぐする。ふと本田はアーサーの顔を自分の両手でつつんで、自分の方に向けた。今度はアーサーがどっきりした。ちょ、ほんだ、まだ夜も更けていないのに・・・!!だから問題はそこじゃないのだけど、お互いこういうところはどうも似ている。だから108年間を過ごしてこれたわけだけども。
「はい、口、あーんしてください」
「あ、あー?」
「・・・ふうん、暗くて見えませんね」
本田はぐぐっと顔を近づける。もちろん骨は喉の奥にあるわけだから、こんな簡単に見えるわけもないことはわかっていたけれど。
一方アーサーは骨より心臓が口から出てきそうで困った。黒い目のなかに自分がうつっているのが見えてあわてて視線を外す。なんだこれは何プレイだ・・・!アーサーは自分の中のあまり強くない理性と対峙する。だってまだかれも若いのだ。そうして本田の薄い口が外した視線のなかに入ってきたとき、それはあっさり白旗を振る。
アーサーは本田の細い手首を掴んだ。驚いたのかすこし体を離した彼を逃がさないように、キスをした。とっても濃いやつ。だってまだかれもわかいのだ。
喉にはまだ違和感が残っていたけれど、もはやアーサーにとってそれはどうでもいいことだった。それより下半身的な違和感をなんとかしたかった。失礼。
「ちょ、ま、アーサーさ、」
ジジイはジジイでびっくりである。だってまさかしょっぱなからこんな熱烈な。先ほどのお口あーんは、ちょっとしたジジイ的誘いでもあったけれどだけどあれほどで彼がこんなになるとは思わなかったのだ。ちょっと若さを見くびっていた結果である。
角度をかえて、執拗になんどもなんどもアーサーは口をひっつけてくるので本田は頭がくらくらした。アーサーの舌が自分の口内であそぶので、それは加速する。ああまだ歯を磨いてもいないのに・・・布団も敷いていないのに・・・本田がぎゅうっとアーサーのシャツを握ったところで、彼の顔は離れていった。本田の口からは、うまく吐けなかった息がまとめてでてきたので、それはたいへん熱をもっていた。アーサーはまたむらっとする。
静かな夜である。春の嵐はとうに過ぎて、梅もこの一週間では実はだいぶん花を散らしていた。だけどそれは2人とってあんまり問題じゃなかった。梅が散ることも、9580キロの距離も、さよりの骨も、取るに足らないことなのだ。
最後のやわらかい梅の香りだけが庭に蔓延している。本田はそっとまぶたをとじた。それを合図にもう一度、今度はゆっくりアーサーは唇を重ねる。
春の味がした。