なにもかも
すらっと背が高いその青年は、薫へ向って何かいっている。その後、薫が吹き出して、笑い出した。何を話しているのだろう。剣心はなんとなく曲がり角の壁にその身を隠してしまった。
剣術小町と呼ばれている、かわいい薫。薫に心ひかれるのが自分だけではないことは重々承知。
だからこそ、自分は気持ちを押し殺して、もっと薫にふさわしい男に彼女を託すつもりでいたんだ。自分のように幕末の暗い影を引いているような男ではなく。薫の横に並んで、日の当たる道を歩いていくのにふさわしい男に。
しかし、俺は結局、薫のもとを離れられなかった。薫なしに生きていくことはもうできなかった。薫もそんな俺を受け入れてくれた。こんな俺を好きだといってくれた。
だから・・・。二人で歩いていくことを決意した。夫婦として。薫を妻として。二人で。
でも・・・。
あのような青年の姿を見ると、自分の過去をやはり見つめてしまう。本当は薫の横に並ぶことなど許されないような男。血塗られた手を持った男。刃以外、何も持たない男。
そして・・薫は若く、美しい。清らかで、優しい。太陽のような存在。
時々、まぶしすぎることがある。薫の笑顔が。まっすぐにみつめることがためらわれるようなまぶしさ・・・。
(はあ・・・何をやっているんだろうな、俺は・・)
祝言の日を1ヶ月後にひかえているにもかかわらず、まだ、こんなことで逡巡しているなんて。でも、多分。薫にふさわしい男だと、永遠に思えない。薫を愛していいのだと、自信がつく日がくるとも思えない。
地面をみつめたまま、剣心はしばらくその場に立っていた。
「ただいま・・・」
豆腐を抱えて帰宅した剣心に、薫が駆け寄ってくる。
「おかえりなさい、剣心!」
満面の笑顔。
(ああ・・・その笑顔・・・まぶしすぎる・・・)
剣心は心の内でつぶやきながら、豆腐が入った桶を薫に渡した。
「はい、薫殿。豆腐一丁でござる」
「ありがと、剣心。今日は、けんちん汁作るからね!」
「あまり無理しなくても大丈夫でござるよ?薫殿、稽古で疲れているだろうし・・・」
「ううん、大丈夫よ、今日は稽古はやめに切り上げたから。」
「おろ?そうでござったか・・・」
(あの男が来たから・・・?)
剣心はそう聞きたい気持ちを押し殺した。
「剣心、ちょっと待てってね~」
薫は豆腐を持って台所へ行こうとくるりと背を向けた。
(・・・・・)
「え?剣心?どうしたの?」
「え?・・・あ・・・・すまん、拙者・・・」
剣心は薫の空いていたほうの手を意識しないままに、つかんでいた。
「剣心?」
「薫殿・・・拙者は・・・・」
剣心は言葉を継ごうとしたが、自分が何を言いたいのか、言おうとしているのか、わからなかった。剣心は顔を上げて、薫をみつめた。
そして薫の肩をぐっと壁に押し当てると、唇を重ねた。
「!?」
薫は驚いたようだったが、そのまま剣心が求めるままに、その甘い唇を重ねてくれている。幾度か息を継ぎながら、剣心は薫との口付けを繰り返した。
言葉ではうまくいえない。単なるやきもちかもしれない。それよりも、もっと深いところにある、己自身への自信のなさかもしれない。自分よりも一回りも若く美しい薫を自分が手折っていいのかという迷いかもしれない。そんな資格が自分にあるのかという不安かもしれない。いろいろな感情が入り混じって、剣心はもう言葉を使って説明することができなかった。ただ、こうやって、薫に触れている。薫の近くにいる。それを確認することだけが、自分の不安や混乱を収めることが出来る気がした。
(俺は、こんなに情けない男だったのか・・・)
人を愛する、恋するということは、これほど人を不安にさせるものなのか、これほど悩ませるものなのか。巴のときさえ感じることがなかった感情を、剣心は30歳を目前にして始めて経験し、落ち着かなかった。
(薫。薫。君を失いたくない。君を二度と・・・失いたくない。俺が生きて行くためには、君が必要だ)
剣心は自分の素直な気持ちを言葉にすることができず、ただ、唇を重ねていた。
「け・・・んしん・・・まっ・・・て・・・」
「はっ・・・薫殿、すまん、拙者、夢中になってしまって・・・」
薫は背を壁にあずけたまま、ずずっと床に崩れ落ちた。剣心もそんな薫を支えるように床へ座る。
「夢中?・・・夢中になってくれたの?剣心?」
「おろ?・・・いや・・・その・・・・」
「剣心が私との・・・口付けに夢中になってくれたなら・・・・うれしい・・・」
「薫殿・・・」
「でも・・・ほら、また、薫殿っていってる・・・薫って呼んで?」
そう上気した顔でいわれては剣心としては、もうぶんぶんとうなづくしかない。
「薫・・・無理させてしまったでござるか?」
「ううん、無理なんて・・・ただ・・・お豆腐が・・・」
「え?」
「力が入らなくなってきて・・・お豆腐の桶、落としちゃいそうだったから・・・」
「おろ~、すまんでござる。」
「せっかく剣心が買ってきてくれたお豆腐だから、大切にしないとね?」
「すまん、薫、拙者、なんだか・・・」
もごもご言う剣心の唇に薫がひとさし指をあてて言った。
「剣心・・・。しあわせになろうね?私たち。」
「薫・・・」
「剣心。今度こそ・・・しあわせになって?」
「薫!」
剣心は薫の肩を思いっきり抱きしめた。もしかすると、薫は何もかもお見通しなのかもしれない。俺の不安や嫉妬心や、すべて。
「もっと・・・したい?」
「え?」
「もっと・・・する?」
「え!?」
「もっと・・・口付け・・・する?」
(ああ。薫、そんな目で、そんなこと聞かないでほしいでござるよ・・・)
祝言を挙げるまでは。正式に婚姻するまでは。薫の体に触れない決意をしている剣心にとって、薫の誘いは拷問に近い。
(祝言まで、あと、一ヶ月もある・・・)
薫への愛おしさで胸がいっぱいになりながらも、剣心は涙目になっていた。