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この貧弱な手で

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終わりが近いのだ。もうすぐさようなら。俺は最初から最期まで最低な男だ。馬鹿で、哀れで、もうどうしようもない。疲れきって骨張った手を触るとフランシスはゆっくりとけだるそうに目を開けた。ふいに、この美しい顔をいっそ俺の手でぐちゃぐちゃにしてしまえたらどうだろうと、真っ黒い欲望が腹を渦巻く。フランシスは俺を認めるとまた目をつむった。


「アーサーか。俺もうだめかも」
「見ればわかる」
「日に日に呼吸が深くなっていくんだ」


少し怖いかも、とフランシスは目を閉じたまま微笑んだ。「俺のハニーは元気かなぁ…」と呟くので俺は「もうすぐ会えるじゃねーか」といたずらに言った。フランシスの言うハニーは死んだ女たちのことだ。もう何千年も前に死んでしまった女や何百年か前に死んだ女。それが死んだときの彼の落ち込みようといったら無かった。だから俺は言ったのに。俺ら国が、人間の真似事なんてしていいはずがないと。人間とは違うのだ。人間はすぐに死ぬ。俺らを待たずにいなくなるのに、フランシスはいつだって本気になる。本気で愛して、看取る。国に感情など要らぬと言った国はどこであったか。きっともう消えてしまったのだろう。
こいつもあの女たちのように消えていくのか。想像もつかない。女たちは歳老いて、しわくちゃになってから死ぬのがほとんどだったが俺達は国である。肉体が衰えることはない。女たちは死んでも肉体が残った。フランシスは泣きながら亡きがらを抱き、轟々と燃える炎の中にそっと入れた。「人間は、こうやって死体が残るから、消してやらなくちゃならないんだ」「なんでわざわざ人間を愛するんだよ馬鹿みてぇ」「なんでだろう。俺はきっと死にたいんだろうね」真っ赤な炎は女を黒焦げにした。しばらくすると黒焦げもなくなって白い骨だけ落ちていた。フランシスはその白い骨を千年前から変わらない白い指先で拾い上げてそれを口に寄せた。軽いリップ音がして俺はフランシスに背を向けた。うわ、俺、今日黒服だった。


「死んだら消えるんだな」
「…まーな、人間とは違うからな」
「アーサーに何も遺してやれなくて残念だよ、お兄さんは」
「ばぁか、邪魔になるだけだからいらねぇよ」
「ふ、ひどい」


フランシスの豊かな金髪は少しくすんだように見える。青を縁取る金もけだるげに揺れている。青い水晶にグレーが射して俺は思わず声をかけた。フランシスはなんだよ、と不機嫌そうに俺を見た。


「…消えるのか」


やっとの思いで絞り出した声はひどく情けないものだった。しかも、わかりきったことを聞いた。どうしようもないことを聞いた。フランシスは消えてしまう。そんなこと、痛いほどわかっている。なにも残らないことも、記憶が薄れていくことも、全部知っている。


「うん、消えるよ」
「はは、はは」
「おかしい?」


ハハハハ、笑い声がこぼれる。カラカラに渇いた笑い声は白い室内に虚しく響く。そうかフランシスは消えてしまうのか。何千年と同じ時間を生きてきたのに、彼の時間はここで止まるのか。かなしい。かなしいのだ。


「泣くなよ、逝きづらい」
「泣いて、ねぇよ、ばかぁ」
「泣いてるじゃん…」
「だって、お前、死ぬ、」
「仕方ないだろ」
「ばかぁ、ばかぁ…俺、最低だ」

最低なのは俺の方だよ、お前を何百年独りにしたんだ、俺は、と確かめるように喉を上下させて、吐き出しているのに咀嚼しているかのようにしてフランシスは囁くように言った。俺の涙は余計に溢れて、フランシスの愛したどんな女よりも美しい彼の髪の毛を掬う。


「なあ、この髪の毛は、いつ消えてしまうんだ。不安で、俺、息できねぇよ…」
「いつだろうねぇ、その棚に鋏が入ってるよ。切ってみたら。邪魔になるかもしれないけど、お前が褒めてくれたのはこの髪の毛だけだからな」
「いいのかよ、自慢の髪の毛を」
「いいよ、お前にあげるよ」


フランシスの指差す小さく白い棚に手を延ばして鋏を掴む。華奢で古い作りの鋏だった。シャキシャキと噛み合わせると心地良い音がしてなんの歪みもないことがわかる。丁寧に手入れをしていたのだろう。でなければこんな古い鋏が美しい状態で残っているはずがない。


「起き上がれるか、フランシス」
「ああ、大丈夫だよ」


むくりと体を起こすフランシスの体は薄っぺらくて押し込めた涙がまた溢れそうになる。散々人の体を貧相だと笑っていたのに、今では彼の方が細く弱々しい。
フランシスはどうぞ、と俺に背を向ける。白いうなじが目を汚す。すると、また、その美しい首をぐしゃぐしゃにしてしまいたいと黒い心が沸き上がる。あのときも、骨に口づけをする彼の全てを壊してしまいたくなったのを隠すためにフランシスに背を向けたのだった。


「アーサー?」


ああ、俺はフランシスが消えてしまうのがかなしいんじゃない。俺の手で壊れてしまわないフランシスが泣くほど憎いのだ。


「前、向けよ」


しゃきん、しゃきん。
はらりはらりと白いシーツの上に金色が散っていく。俺の薄いグリーンのワイシャツにも金色が纏わり付く。フランスの春は美しい。カーテンのない窓から見える青々とした景色は俺の心を乱して、どうしようもない気持ちにさせる。


「お前を消すのは俺だと思ってた」
「ん、」
「お前が死んだ女燃やしてるの見て、こいつは俺が消すんだと思った」
「残念、まだ間に合うけど」
「そだな」


間に合わなくなるまえにいっそこの手で、殺めてしまったほうがいいのだろうか。両手が疼いて鋏をかしゃんと落としてしまった。フランシスの首筋が、髪の毛を掻き分けなくとも目の前にあるのだ。鼓動が早鐘を打つ。この首に手をのばせば、


「髪の毛さっぱり、はじめてだなぁこんなに切ったの」
「ああ、似合ってる」
「珍しいじゃん、お前が俺を褒めるなんて」
「俺お前の髪の毛好きだ」


首にのばした手を頭に持って行く。金に触れるとフランシスの体がびくりと揺れた。髪の毛を撫でて、そのまま頭へ唇を寄せた。彼が女たちの骨にしたように、そっとやさしく。世界一のキスを。どうか彼に安らかな眠りを。ベッドに散らばる金色が光を目一杯含んで跳ね返すから眩しくて目を閉じる。聞き慣れた声が揺れている。


「アーサー、さようなら」
「ああ、またな」



end
作品名:この貧弱な手で 作家名:ささみ