触れて、握って、離さないで
初めてみたそれは、呼吸をするのを忘れてしまいそうな位に、綺麗だった。
何とかひとつだけ息をこぼして、握り直したてのひらはほんの少し、冷たかった。
触れて、握って、離さないで
「連れてけヨ」
「あ?」
「だから、連れてけってゆってんだヨ」
二、三度瞬きを繰り返して、総悟は怪訝そうに眉を顰めた。
「何処にだよ」
「天の川」
お前なら知ってんだロ?
何を根拠に、と口に出しかけた言葉を飲み込んで、総悟は薄氷色の瞳を見返した。
「大体今日はもう七夕じゃねぇやい、バーカ」
「四の五の言わずに案内しろってゆってんだヨ、バーカ」
「江戸でんなもん見えるわきゃねぇだろ、バーカ」
「だったら江戸以外のとこに連れてけヨ、バーカ」
「だから何処にだよ、バーカ」
「ぶしゅう」
ぐい、と華奢な腕が伸びて、襟首を掴まれればぐんと近付いた薄氷。
「『ぶしゅう』に行けば天の川が見えるってゆってたヨ」
「誰が」
「・・・乙女の秘密アル」
「意味わかんねェ」
ひとつ溜息、手持ち無沙汰に首筋を掻いた。
「旦那にでも連れてってもらえば良いだろィ」
「お前じゃないと駄目アル」
「何で」
「嫌がらせだからヨ」
ああ、そうかィ。
□
カタカタ、窓枠についた肘から緩い振動を伝えてわる。
何一言も交わすことなく、総悟も、神楽もスライドしてゆく景色を見ていた。
かぶき町から、あそこまで2時間ちょっとくらい。
田舎と言ったって、同じ武蔵なわけだから距離で言えば然程遠くはない。
江戸と、そのほんの周辺だけが極端に発達しているだけだ。
ほんの少し離れただけで、その景色は天人が来る前も今も、大して変わりは無い。
『ぶしゅう』と神楽は言った。
武州って言ったって、範囲は広いし、それがあの場所で、故郷である理由なんて無いのだ。
それでも気がついたら、あと一駅で終点。
アナウンスが車内に響く。
減速し始めたのを確認すれば「下りるぜィ」と神楽の顔も見もせずに立ち上がった。
神楽も倣うように立ち上がろうとして、瞬間止まった電車にバランスを崩す。
とすんと、軽い重みが背中へ、思わず立ち止まった。
「ごめんアル」
「・・・・いや」
行くぞ、と神楽を促して電車から降りる。
駅の改札を出て、空を見れば丁度空は暗を孕み始めて、一番星きらりとよく見えた。
息をすうと吸い込んで、歩き出した。
数歩後の、小さな足音も聞き逃さないくらいに、静かな夜に。
「何処に行くアルか」
「どっか」
「何だヨ、それ」
覚えている。
駅から真っ直ぐに伸びる畦道を、三番目の電柱のところで左に曲がって、それからもう少しあるけばさわさわと水音が聞こえてくる。
それを頼りに少しばかり急な土手を下って、手入れの行き届いていない裏道を生い茂る草を掻き分けながら進むと。
息を呑む声が背中越しに聞こえた。
しぃ、と口元に手を当てて、そおっと足を踏み入れた。
水辺に灯る光が瞬いて、水面に移りこむ星と共に、きらきらと反射する。
流れる川に沿うように光を並べるそれは、あたかも空にかかった川をそのまま表現しているかのように。
「天の川」
「あァ」
あの時と何ひとつ変わらない景色に、何故か落ち着かない気分になってぎゅっと唇を噛んだ。
「このぴかぴか光ってるやつは、何アルか?」
「蛍」
見てろ、と小さく呟いて、伸ばした人差し指を近付けた。
灯が、指先へと移る。
「虫?」
「あァ」
「蛍ってェのは、この季節にだけしか見られねェ虫なんでィ。
っても、綺麗な水ん中でしか生きられねェから、江戸じゃもうとうに見れやしねェけどな」
「昔は見れたアルか?」
「らしいけど、実際に見たこたァねェからわからねェよ」
「何でこの季節にだけしか見られないアルか?」
「寿命が短かいんでィ。成虫になったら、二週間くらいしか生きられねェ」
「だから、この二週間必死こいて嫁さん探して、子供作って、んで」
死んでゆく。
抗うことの出来ない運命にならって、命を終わらせる。
だから、妬ましい。
「一年に一度でも、逢えんなら随分と幸せじゃねェか」
たった、なんて思わない。
逢うことが出来るなら、それがいい。
待っていることが出来るなら、それがいい。
「どっちも幸せヨ、きっと」
神楽の声を合図に、灯が水面を渡ってほんの二、三メートル先の向こう岸へと飛んでゆく。
一年に一度しか逢うことが叶わなくても、
二週間しか生きることが叶わなくても、
「幸せだから、生きてるネ」
総悟に倣うように、神楽も灯へ指を近付ける。
ふわりと、飛び立ってしまった。
「へったくそ」と総悟が言えば、唇を尖らせて、再度挑戦するもあえなく失敗に終わる。
それを何度も繰り返して、諦めたのか飽いたのか、神楽がまた口を開いた。
「でも私はヒコボシみたいな腰抜けは願い下げアル」
逢いたいなら、川を飛び越えて逢いに行けばいい。
そのままかっさらって、何処へでも逃げればいい。
蛍のように、たった二週間でも二人寄り添ってがむしゃらに生きて、
「最期に泣いてくれるなら、それが幸せヨ」
そんな馬鹿の方が、私は好きヨ
「―・・・・ヒコボシの方も願い下げだろうよ。大体てめェがオリヒメってタマかィ。
ちゃんちゃら可笑しくてヘソで茶が沸くぜィ」
「お前は餓鬼だから私の魅力がわからないのヨ」
うっせぇや、バーカ
□
カタカタ、窓枠に身体をもたれながら、行きとは相違ってペンキでも塗ったかのような景色を見送る。
闇の中にちらちらと、見える光は街頭か、それとも。
しかし、もうしばらくすれば、眩しいくらいに光が溢れた街が姿を現すだろう。
「なァ、お前何で―・・・・」
とすん、と軽い重みが右肩へ。
すうすうと、聞こえてきた寝息に、合わせるように溜息をついた。
あったけェ、手
てのひらにてのひらをのせて、そおっとにぎった。
「あのネ」
「あ?」
「誕生日おめでとう」
「―・・・ってゆってたアル」
「誰が」
「乙女の秘密アル」
「意味わかんねェ」
「わかんなくていいアル」
「何で」
嫌がらせだからヨ
最後に舌をべ、と出してから「ただいまヨー」と家の中へ入っていく背中を、黙って見送った。
総悟はまた手持ち無沙汰に首筋を掻いては、決まりの悪さに息を吐く。
「ばっかみてェ」
温かな感触が残るてのひらを、ぎゅっと握って、緩んだ頬を誤魔化すように唇を噛んだ。
作品名:触れて、握って、離さないで 作家名:ゆち@更新稀