月とあの歌~菊編~(仮)
ただ…それだけだった。
『今日は月が綺麗ですね…。』
雲ひとつない、よく晴れた夜…
菊が月を眺めるのは習慣になっていた。
月を見上げるときに考えるのは、様々だったが…いつも必ずあの人の事を思い出す。
以前、自分に月見を…それ以外にも多くのことを教えてくれたあの人の事を…。
いつのは思い出すだけなのに…この日は会いたくて仕方がなくなってしまった。
『…突然行ったら迷惑ですかね…?でも……。(会いたいです…。)』
そう思うが早いか…菊の足は、あの人のところへ向かって動いていた。
普段、遠慮がちな菊がその日に限って迷惑を考えずに行動に出たのはなぜなのか…。
それは菊にすらわからなかった。
トントン…ノックを繰り返しても返事をしない王耀が心配になり、申し訳ないとは思いつつも家の中に足を踏み入れる。
目的の人物を探すべく、家の中を進んでいくと、ふと声が聞こえた。
今…会いたくてしょうがないあの人の声が…。
菊は足を速め、声がした方を頼りに王耀を探す。
彼は…縁側に座り、一人歌っていた。
『天地の始まり〜♪』
(この歌…昔、あの人が何度も何度も歌って聞かせてくれた…。懐かしい…ですね…。)
『長江のほとり〜♪』
(あの頃と変わらない…歌声…。変わってしまったのは…私ですね…。)
『我侭できたむかし〜♪』
(…歌を聴いたら…帰りましょうか…)
『目覚めたら〜♪』
(あの頃、私に歌ってくれたこの歌…今は誰に向けて歌っているんですか…?)
『あの日竹林で〜♪』
(え…?私のことですか…?まだ、あの頃のこと…覚えていてくれたんですね…。)
『一緒に眺めた〜♪』
(もちろん覚えています…。あの頃から…貴方に教えてもらった月見は特別のものになったんです…。)
『広大な地を〜♪』
(共に歩んで行きたかったんです…。いつまでも…どこまでも…。)
(でも…時代の流れには逆らえません…。貴方も…私も…。)
『果てしない〜♪』
(王さん…すみませんでした…。貴方に会いたいんです…。でも…合わせる顔が…ないんです。)
『例え……』
その言葉を聞いたとき…一瞬、時間が止まったような気がした。
(今…王さんは何と…?)
最後の言葉が本当なら…彼も自分に会いたいと言うことだろうか…。
『はは…は。こんなこと…本人の前じゃ絶対に言えないあるな…。』
さらに王耀の口から発せられる言葉に…菊は思わず足を動かした。
(王さん…私はここに居ます…)
ぽす…王耀の後ろに座り込み、菊は彼の背中に少しだけ体重ををかける。
ぴくり…驚かせてしまったのだろう…王耀が反応するのがわかる。
自分のほうを向くだろう…と思っていた菊の予想は裏切られる。
『き…く…?』
『す…すみません。あの…もう少しだけこのままで…』
体温だけで…背中に触れるわずかな重みだけで、この人は自分だとわかってしまう。
あの頃からそうだったが、成長した私ですら気付いてくれる…。
それだけで十分すぎるほど幸せだ。
もう少しだけ…と思い、さらに体重をかけようとした時…
『…このままでもいいあるが…我はお前と一緒に月見がしたいある。我の横に来るよろし?』
王耀に諭され、菊は王耀の横に座る。
なぜ菊がここに居るのか…聞いてこない王耀が菊にはとてもうれしく思えた。
どちらからともなく…2人の指先が触れ、2人は目を見合わせ…ふわりと笑う。
月明かりで分かり難いが…2人の頬はほんのりと染まっていた。
『なぁ…菊…月が綺麗あるな。』
『はい…王さん…月が綺麗ですね…。』
この言葉の裏に隠れている意味は…本人達と2人を照らす月だけが知っていればいい。
月が綺麗な夜。
2人以外にはただ、それだけの夜。
作品名:月とあの歌~菊編~(仮) 作家名:雪夏