足りない教え
俺がどんなに君を愛しているか。
俺はまだ知らない。
彼女がどんなに俺を愛してるか。
(足りない教え)
「京子」
名前を呼んで振り向いた女神のような俺の奥様。
近寄ってふわり、と甘い香りが漂う彼女の体は柔らかい。
抱きしめる腕に力が篭もり怒られるのもいつものこと。
それでも彼女は太陽のような笑顔で迎えてくれる。
俺はそんな彼女が、自分の妻が、愛しくて仕方ない。
そのことに気付いているだろうか?
「ツっ君、」
「なに?」
「そろそろ離して…?」
「なんで?」
免疫がない彼女に意地悪く耳朶に囁けば赤く色付いた頬。
しかし、これいじょうはこちらの身が持たないかもしれない。
名残惜しくも己の欲望に火を灯もす前に彼女を解放した。
途端、寂しそうな表情を見せた彼女に俺は笑いを堪え切れなかった。
「そんな顔しないで、また直ぐに可愛がってあげるよ」
「もう、ツっ君たら」
夢にまで見た幸せが、目の前にある。
「好きだよ」
「いきなりどうしたの?」
「ちょっと言いたくなっただけ」
「ツっ君……また悲しいこと考えてる?」
その問い掛けに困ったのは俺だけじゃなかった。
何故だか、言った彼女本人が困った顔をしていた。
「ごめんなさい」
そう言った彼女は続けて言った。
そんな顔させるくらいなら、言わなきゃ良かった、と。
俺は彼女が困ってしまうくらい酷い顔をしていたらしい。
ああもう、せっかくの雰囲気が台無しになった。
俺はこうやって彼女に寂しい顔をさせてしまう。
いつも彼女に言い聞かせているはずなのに……まだ教え足りなかったかな。
血管が浮き出るほどの白い細腕を引いて腰掛ける。
もちろん彼女の席は無い。彼女の席は俺の腿と決まっているから。
そして俺は幾度となく囁いてきた愛を再び紡ぎ出す。
愛してるんだ、と。
「俺は“仕方ない”でこの道を歩んでるわけじゃない、自分で選んだんだ」
みんなと彼女がハッピーエンドになる道を。
それは誰かの為でもなければ俺の為でもない。
このモノクロな世界が色付き光が差し込めるように。
それは太陽のような輝きを持つ、君の為。
「俺は君を失いたくがない為に世界を壊す。…こんな自分勝手な俺を許してね」
そう彼女を見てみれば、きょとんとした顔をして不思議そうな瞳で俺を見て逆に俺が戸惑った。
もしかして、俺が言ったことが伝わらなかったのか。だが、彼女はその表情を変えないまま言う。
「ツっ君、自分の幸せを願うのは当たり前だよ?」
だって、人間だもの。そう言った彼女を見て思ったんだ。
なんて京子らしいんだろう、俺よりも彼女の方が余程勇ましく見える。
仕舞いには変なツっ君、と言われてしまう辺り彼女の方が一枚上手とみた。
「…ほんと、敵わないな」
「ふふ、ツっ君に勝てて嬉しい」
「でも俺のほうが京子を愛してるね」
「私だってそれより何倍も愛してるから」
言い合いの中で交わされたキスは何だか酸っぱかった。
彼女が顔を真っ赤に染めてなお、無邪気に笑いかけるから。
柄にもなく、俺まで照れくさくなって、二人でクスクス笑い合った。
人は皆、一人では生きていけない。
自分を支えてくれる誰かがいないと駄目だ。
それが人間であってそれが生き物の業でもある。
愛してると囁けば返ってくるそれ。
彼女と俺はまだ知らないんだ。
「あいしてる」
それ以外での愛しさの表し方を知らないんだ。
この思い、どうやって教えたらいいのか分からないんだ。
fin.